俺が出入り口の扉に向かおうとしている時、キリがデスクの椅子から立ち上がり、つかつかとこちらに向かってくると、俺に真正面から向き合う。
正直、何を言われるか身構えたが、キリは予想外の言葉を口にした。
「翔」
名前を呼ばれて顔を上げると、キリはいつもの色っぽい笑顔で
「デートしない?」と誘ってきた。
デート?
「会長も不在だし、大きなトラブルもない。たまにはゆっくりと外を歩きたいわ。彼も自由にしていいって仰ってたじゃない」
キリの提案に俺は少し悩んだのち、結局頷いた。そのデートが“最後”になるのか“ほんの序章”なのか計りかねたが、どちらにしてもキリの要求を呑むつもりだ。
俺のレクサスに乗り込んで、
「どこに行きたいんだ?」と助手席のキリに訪ねると
「水族館♪」とこれまた意外な答えが返ってきて、しかし俺は素直に頷くしかなかった。
水族館に行きたがるとか、高校生みたいだな。お嬢なら喜んで提案してきそうな…
水族館と名の付くものならどこでも良かったのか、キリはこの場所から一番近い水族館の名を上げた。その場所は割と小規模だった。
それでも車を飛ばして1時間弱は掛かる。普段はむやみやたらとスピードを出すわけでもないし、無理な車線変更もしないが、少しでもこの二人きりと言う時間を終わらせたかった。
水族館に着いたら泳ぐ魚たちを見て少なくとも感想を言い合える。そんな卑怯で安易な考えだった。
「珍しいわね、あなたがスピードを出すなんて」助手席でキリは物珍しそうに、けれどどこか楽しそうに目をぱちぱちさせている。
“珍しい”と言われる程、俺たちはいつの間にか時間を重ねていた。共有していた。
「これでも昔はそれなりに無茶をした。お巡りに追いかけられることもしばしばあったし、煽ってきた車には倍返しで煽り返した。時には車を出て怒鳴り込んだりもしたな」
そう言えば……さゆりとの出会いもそうだった。と、ふと思い出す。因縁つけてきた車のドライバーにキレて(思えばあの頃の俺は若かった…)車を出て一喝してやると、因縁をつけてきたドライバーは一発で俺が「ヤバイやつ」だと悟ったのか、逃げるように去って行った。さゆりはその付近のバス停でバスを待っていたところで、俺の形相に怯えていた。俺はキマヅイ思いでさゆりに頭を下げた。
カタギ(実はそうじゃなかったが)の若い娘さんに俺の怒声はかなりの衝撃だったろう。
その後、偶然にもさゆりの営む小料理屋に入った俺がさゆりと再会し、俺たちはやがて愛し合う仲になった。
「あなたが煽る?へぇ、そうなの?意外ね」とキリは何が可笑しいのか笑い声をあげた。
「血を受け継いだのかイチの運転も荒い方だ。人を乗せてるときはそうでもないがな。スピード狂だし。そう言えば…キョウスケの運転は“荒い”どころじゃなかったな…
初めて車酔いした」
「キョウスケさんが?」とキリが再び目をまばたく。「意外ね、大人しそうなのに」
「大人しいか?見かけはそうだが、あいつはもしかして虎間 戒より気性が荒い。俺に喧嘩吹っ掛けてきたぐらいだからな、挙句殺されそうになった」と苦々しい想いで眉間に皺を寄せると
「あなたが殺されそうになったって…相当強いのね。脳ある鷹は爪を隠すってヤツ?」キリは顎に手を掛け苦笑。「て言うか翔がキョウスケさんを怒らせること何かしたんでしょ」とキリは意地悪く笑う。
「バカ言え。あいつが俺を怒らせたんだ」
俺は自分のマンションの寝室でイチを押し倒しているように見えたキョウスケにキレたのだ。
流石にそれはキリに言えなかったが。
今更―――親子“ごっこ”なんてしている俺は、さぞ滑稽に見えるだろう。ましてやキリにとってイチは義理の母親になる。
だけどあの時初めて、イチを―――大事な娘だ、
俺の娘だ―――
そう自覚した。
しかしそんな本心を出さず、俺は無表情を装って、そんなワケでキマヅイと思っていた車内で、意外にも話は途切れなかった。



