こちらに気付いて姿勢を戻すと
「恋さん」と形の良い唇が動いた


「どうしたの?」


「あの・・・」


どこか思い詰めたような顔つきに予防線を張る


「ごめん、急ぎじゃなければ
次でも良い?
これから出掛けることになったの」


「・・・そうですか・・・」


少しの間が気になるけれど
今は麻人より庸一郎さんのことを優先したい


「僕のは急ぎじゃないので
また次にします、すみません」


ペコッと頭を下げた麻人に
“じゃあ”とだけ告げてデスクに戻った


「せんぱ〜い、何でしたかぁ?」


今にも食い付かんばかりの絢音を
適当に引き剥がしながら


「木村工房行って直帰になりました」


課長に簡単に説明する


「社長から内線があったよ
気をつけていってらっしゃい」


「行ってきます」









地図アプリで“木村工房”を検索する

結果はもちろん予感していた通り

8年前に何度も訪れた宙のアパートから徒歩でも5分ほどの場所だった


「懐かしい」


手土産代とバス代として社長から持たされた封筒から焼き菓子を買うと
あの頃よく乗ったバスに乗った

所々変化した街並みを眺めながら
懐かしいバス停で降りる

アプリ通りに進めば
工房までの途中に宙のアパートがあるはず

懐かしい想いに触れながら
目に映る景色を答え合わせして歩く


「・・・あ」


目に飛び込んできたのは
変わらない景色の中の
異質な[月極駐車場]の看板だった

一番見たかったアパートは跡形もなく消えていた


あの頃でもかなり古かったから
取り壊されてしまったのだろう

名残さえ無くなったその場所に
鼻の奥がツンとした