透き通るような青空を見上げる。

 はあと息を吐けば、白いもやが私の顔にそっと触れた。
 冬の湘南は、温かな日差しとは裏腹にそれを打ち消すくらいの海風が容赦無く吹き付けている。

「さ……ぶい!」

 ブルブルと震えながらダッフルコートの襟元をキュッと合わせる。
 チェックのマフラーに、もこもこの手袋。
 冷気を遮るようにウールの生地に顔を埋めるも気休めにしかならない。
 八十デニールの黒タイツは一番厚手のものと聞いていたけど全く効果なしだ。
 やはりこの季節になるとJK的には完全防備でも海風のせいで寒いことこの上ない。

(まあ……この短さだからしょうがないけどね)

 女の子なんだからあったかくしなさい、そんな短いのを履いてと母にはよく小言を言われる。
 でも膝上三十センチキープはJKの証だと思ってるし、譲る気はさらさらない。
 残りわずかな高校生活をそれらしく過ごしたっていいと思う。
 まあ大人に分かってくれだなんて言うつもりもないんだけど。

「うう……、でもやっぱりしんどいなあ」

 どんよりとした気分に思わず弱音が出る。
 気持ちが落ち込んでいるのは何も寒さだけではない。
 ここ数日、悩みに悩んでいるのだが、解決策がさっぱり思い浮かばないのだ。

(でも……諦められないし、なんとかしなくちゃ……)

 ぐっと拳に力を入れ、歩き出す。
 江ノ電を降りた後、商店街を通ってそうして五分ほど歩けば目の前には相模湾が広がる。
 太陽の光に照らされて輝く水面の上には、湘南らしくこの季節でも愛好家のヨットが浮かび、
 少し荒い冬の海を楽しんでいるように見えた。
 その頭上には見下ろすかのように、遠く泳ぐようにトンビが羽を羽ばたかせていた。

 いつもと同じ、見慣れた風景が広がる。
 私、こと藤村みなみは寒空の下ずんずん歩く。
 海と島を結ぶ弁天橋を渡り、目指すは我が生まれ故郷。

 江ノ島。


 神奈川の湘南に位置する小さな島だ。
 日本百景にも選ばれる、日本屈指の観光地の一つ。
 古くは江戸時代から行楽地として栄え、
 今では修学旅行生やカップルだけではなく外国からの観光客も多く訪れる地となっている。
 行楽地として人気なことから旅館も多い。

 そんな観光地として名高い島のはずれに私の家「たつみ屋」はある。
 創業百五十年の老舗旅館とは聞こえはいいが、最近は客足もまばらな貧乏旅館だ。

(私の家も……もうちょっと繁盛してもいいんだけどなあ……)

 しかし事情を知らない同級生たちからはいいところに住んでるよねなど、囃し立てられたりもする。
 まあ、テレビやネットで願いが叶う! とか、恋人にぴったりのデートスポット! 
 と取り上げられたらそう思うのも無理はない。
 キラキラSNS映えというテレビの特集に思わずため息をついたものだ。
 地元民からすると、どこがキラキラなのかと疑問に思うことも多いけど。

 しかし、昔から信仰の対象だったはずの江島神社だって
 今は参拝客に加えてカップルでごった返してるくらいだから無理もないのかもしれない。


 賑わっているのは悪くない。
 愛してくれる人が増えてくれるのも微笑ましい。
 地元だからそれなりに愛着はある。曲がりなりにも育った土地だ。
 誰だって生まれ故郷を嫌いたくもないし、悪く言いたくもないと思う。


 でも。


 それでもその姿が視界に入るたびに私の心は雨が降ったようにどんよりと曇るのだ。

「はあ……」

 陸と江ノ島をつなぐ弁天橋を観光客に混じって歩く。
 干潮時には本来海であるところに道が出来、橋を歩かなくても島にたどり着くことができる。

 しかし、今は高波がしぶきをあげて寄せては返している。今日は風が吹き荒れている。

 少しでも強風から逃れたくて丸まって歩くけど無駄な努力だった。
 冬晴れの空は澄み渡っているが、風は容赦なく吹き荒れる。
 遮る物がない海の上では冷気が叩きつけるかのように吹き荒んでいた。
 せっかく整えた髪が乱れてしまいそうで、慌てて手のひらで前髪を抑えた。
 本当なら束ねたほうがいいのは分かっているが、髪の毛に跡がついてしまうのが嫌なのだ。
 せっかくヘアアイロンで伸ばしたというのに、この風ではどちらにしても台無しなのだけれど。

 そんな陰鬱な気持ちで橋を渡りきり、島の入り口に立ち止まる。
 ここまでくれば山のおかげでそこまで風は強くない。
 乱れた髪の毛を整えて、改めて視線を前に寄越した。
 平日だが観光客で賑わっているのが人気の高さが伺える。

 江ノ島の入り口といえば、青銅の鳥居とその向こうに伸びている弁天仲見世通りだ。
 青銅の鳥居と呼ばれるそれは名前の通り、青く霞がかった色をしている。  
 まず観光客が足を踏みいれる場とあって、
 両脇の店は迎えるかのように美味しい香りとともにご当地グルメの看板や露天が並ぶのだ。

 仲見世通りは最近は海外からのお客さんもいるとかで、
 江ノ島ビールやしらすコロッケの旗の下には人だかりができている。
 お目当ての江ノ島神社までは少し歩くため、そうでなくとも長い弁天橋を渡ってきて体も冷え、
 お腹が空いている観光客が美味しい香りの誘惑に勝てるはずもないのだ。

 実際のところここはミーハーなお客さんの心を捉えるくらいにはお腹も心も満たされる見どころは多い。
 冷えた体を温めるために、甘酒を飲んだり、ホカホカの饅頭を食べたり舌鼓を打っているようだ。

 現に目の前のしらすコロッケの出店もカップルから家族連れ、
 はたまた海外からのお客さんで賑わっている。

「いいなあ……」

 思わずポツリと呟いた。
 私もここにいる人たちのように江ノ島を楽しめたらどんなにいいだろう。
 こうした想いは今に始まったことじゃない。
 子供の頃から何度もそう思った。
 私が仲見世通りを見るたびに陰鬱とした気持ちになるのは理由がある。
 しかもそれは自分の努力では到底解決できないからこそタチが悪い。


 この鳥居は『とある境界線』なのだ。


 本来なら忌避することもできようが、
 毎日江ノ島神社に参拝する私にとってはこの道を通らずにはいられないのだ。

 少しだけ緊張するようで思わず立ち止まる。
 毎日繰り返しているというのに、未だ慣れない。
 しかし、お参りを一日たりとも欠かすことはできないのだ。
 意を決して、入り口の鳥居をくぐる。
 青銅の鳥居が背になる。
 普通の人ならただ代わり映えのしない、坂道が見えているはずだった。

「……」

 目の前に広がる光景にため息をついた。

 買い物を楽しむ観光客の間、『本来視えないはずのもの』が見えている。

 目を何度瞬きしても私の視界から消えることなく、心をざわざわと震わせた。
 周りは気にすることなく観光を楽しむ人ばかり。
 まるで私だけが人の世界から切り離されて違う空間へ放り出されたようなそんな違和感が体を襲う。

 落ち着こうと小さく息を吐いた。
 私の視界に映る、明らかに現実離れした光景。
 私の足元を犬が通り過ぎる。 
 しかし私の横を通り過ぎた瞬間、すくっと二本足で立ち始めたではないか。
 それだけではない。
 家族連れのたぬきだったり、お揚げを美味しそうに見つめる狐のカップルだったり。

 もこもこの毛に覆われた、人らならざぬモノ。
 動物の形を成しているはいい方で、時には妖怪漫画さながらの異形のものだったりするから気が抜けない。



 そう……、私はその類、あやかしが『視える』のだ。