にじいろの向こう側





「…ちゃん、咲月ちゃん!」

「え?」


キッチンの中に真人様が私を呼ぶ声が響いた。



「…聞いてなかった?」
「あ…いえ…。」


ティーカーップを両手に持って、「もー」と笑っている真人様。


「咲月ちゃんて、彼氏いるの?って聞いてんだけど。」


か、彼氏?!


瑞稀様が脳裏に浮かび、身体がカアッと熱くなった。


「あ~その反応は、居るんだ!」


どうなんだろうか…。

確かに、私の勢い余った告白を受け止めて下さったけれど…『付き合っている』と言う感覚とは違う気がする。


優しいし、私の事ちゃんと考えてくれているし…別に『遊ばれている』とも思わないけれど。

どことなく、『守られている』感覚に近い気がして。


「……。」


ポットに茶葉を落としたら、瑞稀様が好きなアールグレイの香りがふわりと広がる。

お湯の中で踊る茶葉を見ながら、瑞稀様の穏やかな笑顔を浮かべた。


…実際に、瑞稀様が私をどう思ってくださっているのか、聞いた事はない。

最初に『本気で手を出す』とはおっしゃっていたけれど。

それに…な。もう…。


『ネクタイ結びに来なくて良いから。』


「彼氏は…居ません。」


自分で放った言葉にやけに悲しさが込み上げる


「そっか~メイドさんて出会うのこの屋敷内しか無いもんね。」


「俺もその一人だね」と笑いながらまた頭をグシャと撫でる真人様にまた瑞稀様が重なった。


約束を破ってしまったもんね、私…。


「あっ!咲月ちゃん!」

「え?熱っ!」


伸ばした手が蒸気を上げてるやかんに触れたら、瞬時にその手を握られて水道のお水にそのまま突っ込まれた。


「も~どうしたの?さっきから上の空!」

「…すみません。以後気をつけます。」


ご主人様にやけどの応急処置などやらせて…。
本当にダメだ、私。

俯いた途端に両頬を包まれた。


「そう言う事じゃないでしょ?心配してるんだよ?俺は!」


真剣な眼差しが真っすぐ私に向かっている。


『何やってんだよ…』


今度は瑞稀様の飽れ顔と重なった。


「あの…心配して下さってありがとうございます。」


目頭が熱くなったのを堪えて、そっと真人様の掌を外す。


「お茶をお運び致します。」

「あ、俺が持ってく!」

「…では、私はまだ掃除が残っておりますので、こちらで失礼致します。」

「え?!あ、咲月ちゃ…!」


急いで一礼すると、足早にその場を後にした。


そのままダッシュで駆け込んだ洗濯場。
洗濯機の前で息を吐き出したら積を切った様に涙が溢れ出て来る。


「っ……。」


『ネクタイ暫く結びに来なくていいから』


“拒絶された”…のかな、私。


約束も守れない、オーナメントもロクに作れない、心配して下さってる真人様にも気が付かない…こんなんだもん。

もう愛想つかされたんだ、きっと。


不意にスマホが短く揺れた。


『おはよう。今日もお疲れさま。
いきなりだけど、坂本さんのフォローに回ってもらっていい?厨房に行ってると思うから。』


圭介さんから…だ。


瑞稀様から、お仕度のお手伝いの事聞いたんだろうな、きっと。


相変わらず細やかに気を回してくれる圭介さんに感謝して、お腹に力を入れると、気持ちを引き締める様に立ち上がった。


……働かなきゃ。


呆れられたって、嫌われたって、私はこのお屋敷に雇われているメイドだから。


ご主人様である瑞稀様がここへ戻られたとき、ゆっくり過ごせる環境を作り上げる事を一番に考えなきゃ。

それがこのお屋敷に従事してるものの務め。

私、ちゃんと最近、それを考えていた?

瑞稀様に想いを打ち明けてから、自分の『好き』と言う気持ちに左右されて、根本を見落としていたんじゃない?


目元を拭い、水道でハンカチをぬらして目を覆う。

ヒンヤリした感触が瞼と一緒に思考を一気に冷やして行った。


瑞稀様はお優しい方だから、私の想いを無下に出来なかった。
私はそんな瑞稀様の優しさにのぼせ上がっていた。


ふうと息を吐き出し、走って来た道を今度は踏みしめながら歩き始める。


脳裏を過った上田さんと瑞稀様の立ち姿。

…私はきっと一生かかったって、あんなに素敵な人にはなれないけれど、メイドとしてちゃんとこれからも瑞稀様のお側に居られる様に精進しなきゃ。


頑張ろう…いつか、もう一度、瑞稀様のネクタイを結ばせて頂ける様に。