平和な時間を続けることは難しい。けれど、それを壊すのはとても簡単だ。一つの選択で全てが崩れ落ちる。
所詮、この世界は幻想に過ぎない。
今、この瞬間も鏡に映った虚像は必死に足掻き、苦しんでいる。そして、必死に叫ぶのだ。
『壊さないで、奪わないで』
質素な装飾の本を眺める少女は紅い瞳を動かして文字を追う。名前も残っていない、どこかの思想家が遺した手記を彼女は本が傷付くまで読んでいた。共感が出来るわけではない。ただ、胸に残るのだ。この世界の全てを否定するような、短いこの文章達が。
「あ、シイナ。ここに居たのね」
「アル? どうした?」
「ファルくんとロタスくんが来てたわよ?」
シイナと呼ばれた少女が顔を上げると、長い黒髪の彼女よりも大人びた雰囲気を持つ彼女の姉であるアル――アルレーラがこちらへ近付いた。その際、口にした名前にシイナの表情が一気に明るいものになる。
「ほんと! 今日はどれくらい会ってても良い!?」
「今日は、お母様もお父様も帰りが遅いと仰っていたから夕方まで大丈夫」
「やった! 行って来る!」
ばたばたと駆け出すシイナの背中に転ばないように声を掛けるアルレーラの背後から二つに結った金色の長髪を揺らし、燕尾服を着た青年が彼女の隣に歩み寄った。
「シイナ様が満面の笑みで走って行ったが、君の入れ知恵かい? アルレーラ」
「入れ知恵なんて言い方しなくてもいいでしょ。せっかく、お父様もお母様も居ないんだもの。シイナも羽を伸ばしたいだろうし、二人が来てることを教えただけ」
「ふぅん……僕は君と二人きりになれて嬉しいけど、アルレーラは違うみたいだ」
「えっ、素直なユウリなんていつ振りかな……」
そんな姉とシイナの従者である青年ユウリの会話を微かに聞きながらシイナは笑みを浮かべる。あの二人が一緒に居ることを望んだのは彼女自身だ。そんな彼等が幸せであることが自分の喜びだから、とシイナは城の出入口まで駆け抜けると、並ぶ二つの翠色の頭を見つけた。
「ロタス! ファル!」
「あ、シイナ〜! お久しぶりだね! 今日は出て来て大丈夫なの?」
呼び掛けに応えたのは同じ翠色の髪と水色の瞳を持つ双子の兄弟の弟であるロタスだ。
「うん。今日は母様と父様の帰りが遅いから夕方まで大丈夫みたい!」
「わぁ、たくさんお話出来るね! ボク嬉しい!」
「私も私も!」
「二人共、ここ城の前だからな」
手を取り合って今にも踊り出しそうなほど喜んでいる二人を制するのは兄のファル。その声に二人は、はっとした様子で顔を見合わせると今度は静かに笑い合った。
双子の彼等と会い、話すこと。それが、いつも城の中から出ることの出来ない“王女シイナ”の数少ない楽しみの一つだった。
この世界の片隅にあるアピリフィーナ大陸を二分する大国の一つであるミシュエルフィッツ王国の王女であるシイナは警護の者が近くに控えているとはいえ、城から遠く離れることは出来ない。そんな中で三人がいつも会う時は、大陸を統べるもう一つの大国マルカス帝国との国境になっている森の側にある大樹の根元で談笑することが多かった。
「ファル、この前の絵は出来たのか?」
「あ、それボクも気になってた! ファルったら、ボクにも見せてくれなかったんだよ」
「なんで俺の絵にそんなに興味津々なんだ……俺の作品なんてシイナちゃんが見てるものに比べたら――」
「私はファルの絵が好きだから!」
ふふん、と胸を張ってそう叫んだシイナにファルは何も返すことが出来ず、小さく溜息を吐いて観念したように四つに折り畳まれた紙を取り出すと二人に見せる。
「はい。まだ途中なんだ」
そこに描かれていたのは、この場所から見たミシュエルフィッツ王国の風景。まだ色も塗られていない簡素なものだが、それでも今見ている景色を切り取ったかのような完成度にシイナとロタスは彼に抱き着いた。
「すごいね! ファル!」
「ほんとだよ! ファルすごい!」
「な、なんで抱き着く必要が……まぁ、でも……ありがと。俺なりにこれからも頑張るよ」
年齢よりもどこか幼い二人の頭をぽんぽんと撫でると、三人は自然と並んで大樹の根元に腰を下ろす。そして、優しい風と鳥のさえずりを伴奏にファルよりも少し高い声でロタスが歌を奏で始めた。
「〜〜〜〜♪」
歌詞のない旋律だけの歌を子守唄にシイナは微睡みの中へ落ちていく。ぼんやりとした視界の端でファルがスケッチブックを開いた様子が見えたが、それに茶々を入れるようなことはせず、彼女は眠りについた。
王女という立場を忘れられるこの瞬間が何よりも愛おしく、大切で、時折両親に怒られながらもずっとこんな時間が続いていくのだと、そう思っていた。
――あの男が現れるまでは。
昼寝からシイナが目を覚ますと、隣に居るはずの兄弟の姿が見当たらない。
「ロタス……? ファル?」
二人の名前を呼んでみるが返事はなく、聞こえるのは鳥達の鳴き声だけ。来た道を引き返すと、ぐったりとした様子の翠色の頭を持つ青年を小脇に抱えた男の広い背中が見えた。
(あれは……どうして、あの二人が……!)
迷う時間はない。シイナはいつも腰に常備していた拳銃を取り出すと、男の方へ静かに駆けて行く。安全装置を外し、引き金に指を掛けたまま無防備な男の背中に銃口を向けた。
「君には撃てないよ」
「……っ!」
抑揚のない淡々とした声はたった一言でシイナの動きを止める。ユウリよりも短いが伸ばした白い髪を肩の辺りで二つに結んでいる男が振り向き、漆黒の双眸がシイナを捉えると、にやりと笑った。
「やっぱり、君だった。“シイナちゃん”」
「どうして……私の名前を……」
「この国に君のことを知らない人は居ないんじゃないかなぁ? あ、でも……そっか。君は名前で呼ばれるよりもこう呼ばれる方が多いんだっけ? “王女様”って」
“王女様”。
その単語にシイナが青褪めた。確かに彼女は王女であり、いずれ女王の座に就くからこそ誰からもそう呼ばれていたが、何よりも彼女はその言葉が嫌いだ。両親と姉に従者、そして唯一シイナを一人の少女として見ていた双子以外の全ての人達が誰も“自分”を見ていないように感じるから。
「気安く、呼ぶな……!」
振り絞るような震えた声に男は噛み殺した笑い声を漏らすが、その瞳は笑っていない。
「あはは。不快にしたなら謝るよ、ごめんごめん。でもね、この子達は連れて行きたいから、君に邪魔されるわけにはいかないんだ」
それは、一瞬の出来事だった。
動揺したシイナに近付いた男は彼女の腹部に拳を叩き込む。鋭い痛みが身体中を走り、全身から力が抜け、前のめりに倒れた。
「っあ……!」
「すぐに兵士くん達がやって来るだろうし、しばらく大人しく眠っててよ」
「ふた、りを……どうする、気……っ!」
「どうもしないよ。ただ、“返して”貰うだけ。あとはこの子達次第だよ」
痛みで遠くなる意識の中、最後に見たのはずっと自分に笑い掛けてくれた、たった二人の友人の姿。
『壊さないで、奪わないで』
何故か、何度も読んだあの本の一文が頭に浮かんで消え、それは彼女の心の叫びと重なり溶けた。
大切だった日常が崩れていく瞬間だった。