廊下はまばゆい朝の香りで色づいている。
澄んだ空気に満ちた廊下を歩きながら、ちらちら横目で綾木くんを盗み見ては、改めて惚れ惚れする。綺麗な鼻筋が強調される横顔は変わらない。こんな近くでまた綾木くんを見つめることができるとは、なんてご褒美だろう。
だけどその一方で、いきなり大人になった綾木くんを見ていると、わたしが知らない10年が綾木くんにあることを実感せずにはいられない。
話したいことも聞きたいことも、山ほどある。
──どうして先生になったの? そんな夢があったなんて知らなかった。家族に許してもらえたの?
──病気になったり怪我したりしなかった?
──身長、だいぶ伸びたね。でも少し痩せた?
──今でもシチューは好き?
──どうして10年経ってもそんなにかっこいいの? とてつもなくモテるでしょう。
──今、彼女はいる……?
「緊張してるのか?」
心の中の問いかけはひとつも言葉になることはなく、そしてその意識を遮るように綾木くんの声が耳に届いた。
突然話しかけられたものだから、答えを準備する間もなく反射的に返す。
「えっ、あっ、はい……!」
するとまっすぐ前を見据えたまま、綾木くんが告げた。
「俺のクラスの生徒はみんないい奴らだから。俺が目を光らせてる間はそういう心配はしないでいい」
芯の通った言葉が、じんわり胸に響く。ハスキーで時折掠れる声には経験からくる重みがこもっている。これが10年の月日というものだろうか。
不意に足を止めたわたしに気づいたのか、数歩先を行った綾木くんがこちらを振り返る。
「森下?」
──梅子。
同い年だった綾木くんの声が、耳の奥で聞こえた気がした。けれどそれは水の中のようにくぐもって遠い。
綾木くんが呼ぶのは、梅子じゃない。綾木くんの目に映るのは、梅子じゃない。もう永藤梅子はどこにもいない。──これが、これから森下桃として生きていくということなのだ。
「どうした?」
生徒を気遣う”先生”の顔をする綾木くんに、わたしは笑顔を取り繕って浮かべた。
「すいません、ちょっとぼーっとしちゃって。今日からよろしくお願いします……先生」
「ん。よろしく」
綾木くん──先生が淡く頬を緩めた。
その瞬間胸の中で炭酸が弾けて、ああ、この人が好きだと、そんなたしかな感覚が体中を満たした。多分、彼を好きにならない人生なんて、どんなに転生を繰り返したとしてもありえないのだ。
たとえその関係性が教師と生徒だったとしても。