そんなわたしと綾木くんの出会いは半年ほど前。ある春の日、桜が咲き乱れる高校のグラウンドで、偶然彼を見かけた。

 風に髪を弄ばれながら、けれどそんなことには意に介さず桜をじっと見上げる学ラン姿の彼が、まるで彼ごとピンク色に染まっていた。そこにだけフィルターがかかっているように、まわりからは切り離されて見えた。

 一目惚れなんて信じていなかった。恋を知らなかった頃は、そんなの少女漫画の中だけでしょって、ちょっと馬鹿にしていた。
 けれど絵のようなその姿に、文字の如く一瞬で心ごと奪われてしまったのだ。

 それからずっとひっそり恋心を胸にしまったままでいたのだけれど、とあるこじれたきっかけを経て告白をしたわたしに、綾木くんは『別にいいけど』とそっけなくもなんとOKをくれたのだ。『つ、つつつつ、付き合ってくれませんか』とひどく不格好な告白を。
 なんで告白をOKしてくれたのか、なんで2ヶ月経った今もこの関係が続いているのか、今でもわからない。
 わたしは自分で言うのもなんだけれど、とても平凡な女子だ。地味で可愛くもなく、なんの取り柄もない女子。大勢の中では否応なく淘汰される、〝その他〟側の人間。
 そんなわたしと綾木くんが一緒にいてくれるのは、多分綾木くんの気まぐれで、暇つぶしなのだと思う。

 綾木くんの少し低くて柔らかい声が自分の名前を呼ぶたび、ひいおじいちゃん命名のダサくてコンプレックスだった名前を好きだと思える。綾木くんの鋭いけれど綺麗な瞳の中に自分が映っているだけで、存在価値を感じられる。
 わたしにかけられた透明人間の魔法を解いたのも、吃音症を笑わず待ってくれるのも、綾木くんだけなのだ。

 ……でも、だからこそ欲張りにも思ってしまう。いつか、ほんの少しでも、一ミリでも、わたしと同じ気持ちになってほしいと。
 身の程知らずだとはわかっている。透明人間とみんなの王子様。本当だったら肩を並べて歩くことも許されない。こんなふうに目の前にいられるだけで奇跡なのに。

「なに見てたの」

 綾木くんの問いかけに、わたしは心を落ち着かせるように大きく息を吸い込む。こうして緊張しないよう何度か深呼吸をしてから話すと症状が出ないのだ。
 いち、に、さん。

「……かっこよくて」

 こんなふうに深呼吸してから話すわたしのことを、同級生たちはとろいと言って煙たがった。
 けれど綾木くんは違う。綾木くんはなぜか、わたしの間を待っていてくれる。綾木くんの纏う空気はいつだって凪いでいて、彼のまわりだけ時間がゆったりと流れているように感じる。

「そんないいもんでもないだろ」

 女子の歓声を浴びるのが日常茶飯事となっているというのに、綾木くんは自分の魅力に無関心だ。

 と、そこで綾木くんの表情がいつもより翳っていることに気づいた。瞳に影が差している。
 踏み込んでいいのか、心の中で足踏みして躊躇する。けれど。

「……あ、綾木くん、なにかあった?」

 思い切ってそう問いかけると、綾木くんが小説に視線を落としたまま唇を動かす。そこに、わたしが踏み込んだことに対する嫌悪感は感じられなかった。

「あるよ。だれかさんの視線が突き刺さってることとか」
「あ、あは……」

 非難めいた返しに、思い当たることしかないわたしは思わず苦笑いを浮かべる。
 すると、頬杖をついて綾木くんがぼそっと一言継いだ。

「……まぁ、あとは成績」
「……綾木くん……」

 綾木くんの家は、代々医者だらけの由緒正しきエリート一家だ。
 綾木くんだって充分すぎるくらい成績がいいけれど、それでもこの前の試験の結果でなにか言われたのだろうか。
 家族と離れるために、高校に通うためという口実でマンションにひとり暮らしをしている綾木くん。実家にいると、縛りだらけの環境で息苦しいらしい。そんな話を、一緒に帰る道すがら、天気の話でもするようなトーンで話してくれた。
 家族がいるのに、綾木くんはひとりぼっち。そのことに胸を痛めたのは確かだ。でもそれと同時に、初めてわずかな共通点を見つけたような気がして少し安心してしまったのは、わたしの心が汚れているせいだと思う。

 本当ならここでなにか気の利いた言葉をかけてあげられるのが、彼女というものなのだろう――付き合って2ヶ月、彼女というものを実感したことはないけれど――。
 でも、向かい側に座った綾木くんがひどく寂しそうで、孤独の影を追い払ってあげたくて。わたしは一世一代の勇気を振り絞り手を伸ばして、向かい側に座る綾木くんの手を握りしめた。

 綾木くんが視線を持ち上げたのが、見なくてもわかる。
 けれどわたしはというと頬に集中したように熱が差し、顔を上げることができない。
 これが、付き合ってから綾木くんに初めて触れた瞬間だった。

「……梅子?」
「わ、わわ、わたしが隣にいるよ……」

 言葉として響き渡り耳に返ってきてから初めて、自分が厚かましいことを言ってしまったことに気づく。
 わたしが隣にいたってなんにもならないかもしれない。いや、むしろ邪魔で迷惑かもしれない。

 綾木くんは視線を窓の外に投げたきり、なにも言ってくれなかった。

 図書室の窓から差し込む燃えるような夕陽が、わたしたちの繋がった手と手をオレンジ色に染め上げていた。