そして、1時間半後。
 あれだけ苔や黒ずみで荒んでいたプールは、見違えるほど綺麗になっていた。

 プールの縁に座り、達成感に浸りながら空っぽのプールを眺める。半年以上使っていないプールの汚れのしつこさには驚いたけれど、2時間ブラシで磨き続けたかいがあった。

 空っぽのプールを見るのは初めてだ。いつも大勢の生徒で溢れて狭く見えるプールが、水も入っていない無人の箱であるこの状況では、とても広く大きく見えるから不思議だ。

「お疲れ、森下」
「お疲れ様です」

 水道で足を洗ってきた先生が、わたしの横に腰を下ろす。

「疲れたか?」
「いえ、楽しかったです」

 とても個人的な意見としては、超絶レアな腕まくりと裾まくりをする先生の姿が拝めて、お腹もいっぱいだ。それに、先生と共同作業しちゃったことに内心うはうはだけれど、それらは全部自分の心の中で抑えておく。

「もうすぐプール開きなんですね。先生って、泳ぎは得意だったんですか?」
「別に普通」

 わたしは知っている。先生が言う普通は、つまり他の人からしてみたら得意ということだ。

「でも懐かしくはあるな。俺、ここの卒業生だから」

 そう呟く先生は遠い日々に思いを馳せるみたいに、空っぽなプールを、そこにまるで水が満ちているかのような儚んだ眼差しで見つめる。

 その視線の行く先を、わたしは思った。先生の高校時代のアルバムという名の思い出の中、隙間にでも梅子は存在しているのだろうか。

 横にいる先生を見ていて、ふと先生の左耳にピアスの跡が開いていることに気づいた。
 まさか教師になった今も開いているとは知らなかった。
 そのピアスの穴を開けた時のことを、よく覚えている。綾木くんの誕生日に、イヤーカフとピアスを間違えてプレゼントしてしまった時、綾木くんはそれを拒むでもなく、なにも言わずに受け取ってくれて自分の耳に穴を開けてくれたのだ。
 わたしはその時、綾木くんの無口な優しさに救われた。

 この距離じゃなかったらきっと気づかなかった、柔らかそうな髪の隙間からちらりと覗く、ひとつだけ穴の開いた形のいい右耳を見ながら、知らぬ間に口が動いていた。

「その耳の穴、いつ開けたんですか?」

 どうしてそんなことを口走っていたのかわからない。
 でも今の綾木くんの中に、ほんのわずかな梅子の足跡を見つけたくて。

 すると先生は、空っぽなプールを見つめながら、唇だけを動かした。

「さぁ、覚えてない」
「……え?」
「過去のことなんてどうでもいい」

 温度のない乾いた声に、わたしは胸を冷え切った手で鷲掴みされたかのような息苦しさを覚えた。
 奈落の底に落とされたような衝撃に、口をわずかに開いたままなにも言えないでいると、先生がこちらを見た。わたしを見る目はひどく事務的で、そこに光は灯されていなかった。

「むやみに生徒が教師の事情に入り込んでくるもんじゃない」
「……でも、」
「暗くなってきたし、片付けはしておくから森下はもう帰っていい」
「せん、せい……」

 それ以上のやりとりを拒むように、先生がこちらも見ずに立ち上がる。
 それは、紛れもなく拒絶だった。そこから入ってくるなと、先生の心から閉め出されてしまった。抵抗する余地も取りなす余地もなく、あっさりと。