まさか、あの先生とお隣さんだなんて。
 あのあと先生はわたしに「面倒なことになったら困るから、このことは内密に」と言ってきた。言われなくてももちろんだれにも言うつもりはなかった。
 先生との秘密ができたことに、嬉しくて心が躍ってしまう。可愛いわたしに生まれ変わったうえに、こんな特別な秘密までできてしまうなんて、第2の人生はどこまでもわたしの味方をしてくれているみたいだ。


 その日の休み時間。わたしは机ごとサラちゃんたちに囲まれ、メイク談義に加わっていた。
 とは言え、メイクは初心者。高校はメイクは校則違反だったし、する必要性がなかったから、プチプラのコスメさえ持っていなかった。メイクのやり方なんてもってのほかだ。
 けれどサラちゃんたちに言わせてみれば、そんなのありえないらしい。

「桃ちゃん、絶対メイク映えする顔なんだからメイクしなきゃもったいないよ!」
「でも校則違反だし……」
「なに真面目女子みたいなこと言ってんの! うちらだってみんなしてるし、先生たちもある程度は多めに見てくれてるよ?」

 それでもなお、躊躇するわたしに、サラちゃんたちは持ってきていたコスメで手早くメイクを施してくれた。あちこちから次から次に手が伸びてきて、まるでお嬢さまにでもなった気分だった。
 そして10分後。サラちゃんがわたしに向けてくれた鏡の中には、見たことのない可愛らしい少女がいた。睫毛はくるんと持ち上げられ、大きな瞳が細い縁取りや淡いアイシャドウによっていっそう強調されている。肌は透明感が増し、頬は恥じらいのピンクが彩り、うるうるの唇が瞳を奪う。

「これがわたし……」
「ふふ、なに言ってんの! 全然薄いメイクだよ? でもやっぱり思ったとおり超可愛い! お人形さんみたい!」

 自分で言うのもなんだけど、桃は本当に可愛い。
 まるで、住む世界が違うと思って見ようともしなかった類の世界の女の子だ。

「ほらほら、せっかく可愛くなったんだから、さきちゃんのとこ行って来たら?」

 にやにや笑って窓の外を見やりながら、ルミちゃんがこそっと耳打ちしてくる。
 視線の先を追うと、ふと一階の渡り廊下を歩く先生の姿を見つけた。

「先生……」
「可愛いって言ってもらってきなよ」

 先生に、少しでも可愛くなった姿を見てもらいたい。
 こんなこと、梅子は考えたこともなかった。メイクをしようなんて、思ったこともなかった。
 新鮮なきらめく思いが心を満たす。

「ほら! さきちゃん、行っちゃう!」
「行け行け、桃ちゃん!」
「行ってくる……!」

 わたしの恋を応援してくれている友人たちに背中を押され、わたしは教室を駆け出た。

 先生の元に向かう足取りは軽い。
 先生、気づいてくれるだろうか。もし、可愛くなったな、なんて言われちゃったらどうしよう。心臓が爆発しちゃうかも。

 校舎の構造は知り尽くしているから、どこをどう行けば先生の元にいち早く辿り着けるかはすぐに頭の中で計算できる。
 最短ルートで階段を駆け下り、この先の廊下に先生がいるというところで、ふと足を止めた。
 曲がり角の向こうから、男女の話し声がする。
 おそるおそる角の向こうへ足を進めれば、こちらに背を向けた先生の腕の中に、体育の松尾先生の体がすっぽり収まっているという光景が目に飛び込んできた。
 それが抱きしめ合っていたのではなく、転びかけた松尾先生を抱き留めたのだろうということは、ふたりの体勢で分かったけれど、衝撃的すぎる光景に片足を踏み出した変な体勢のまま固まる。
 まずいものを見てしまった、本能がそう悟って、呼吸することさえ忘れる。

「それなら俺がやりますよ。腰、さらに痛めそうですし」

 先生の腕の中に収まったままの松尾先生が、至近距離から先生を見上げる。
 それはあまりに自然すぎる距離の詰め方だった。なぜか、その視線にただならない危険を感じて――。

「でも、綾木先生にやらせるわけには……。それなら私がサポート――」
「――わ、わたしが手伝います……!」

 思わず考えるよりも先に声が出ていた。途端にふたりの視線が、授業中さながらに勢いよく挙手をしたわたしに向けられる。

「森下?」

 振り返った先生が驚いたようにわたしの名前を呼んだ。
 そこでふと気づく。そういえば手伝うってなにを……?