九十九家の長い階段の前の、池。そこには、俺が幼い頃には何匹も鯉が居た。居ないのは、大分前に鳥にやられてしまったからのようだ。

「比井野さ、僕のこと男だと思ってたでしょ」

どきり、とした。

紺色に染められ、短く切り揃えられた髪。
前髪は長く目がほとんど隠れている。
声は中低音ほどで、背は決して高くないが学生ならこの程度、よく居るだろう。

「思って、ました」
「あはは」

怒られてしまうだろうか、と思ったが、予想外れだった。
彼女は、花蓮さんは、笑った。

「(……綺麗だ)」

長い前髪から覗く瞳は、薄く閉ざされていたが、綺麗な紅だった。

「嬉しい。僕、八雲さんが言ってた通り女に見られたくないから。そんで、男にもなりたくない」
「それは、どういうことなんですか」
「そのまんまだよ。僕は、中性でいたい。女にも、男でも、何者でも……九十九花蓮でも、居たくない」

また、だ。

紅い、紅い、触れたら火傷してしまいそうな瞳が、寂しそうに揺れた。

「……アンタさ、なんで警察なんてなったの」
「花蓮さんのお父様とおばあさまに救われたからです」

突然の問いに、そう答えた。
花蓮さんのお父様は、元警視総監。
おばあさまは世界でも有名な日本舞踊の大先生。

「やっぱり。祖母のことは、僕は正直よく知らないよ。比井野、アンタの方がよく知ってんじゃない?」
「祖母なのに、ですか」
「だから書類上は違うって。父さんもそう」

そう言って、花蓮さんは小石を池に投げた。
何も生き物の居ないその池が反応することはなかった。

「父さんは、最近親面してる。けど、違うだろ。僕にすりゃ、あんなやつ、親じゃないね」
「何を、」
「だって"私"を捨てたのは他でもないアイツだ」

思わず、黙ってしまった。
九十九警視総監が元妻であった花蓮さんの実母を暴行し離婚したことは、耳にしている。

「アイツは、自分で自分の子を捨てた。なのになんで今更、親ぶってんだよ。可笑しいだろ?」


誰があんなやつの世話になるか。


そう吐き捨てて、花蓮さんはまた、ヘッドフォンから流れる音楽の世界に閉じ籠ってしまった。