一応ノックはしたけれど、返事が無いのでドアを開ける。

 帰宅時はとても動揺していたので、何も考えず自分も一緒に、司君の部屋に入ってしまった。今更ながら、勝手に入っても良かったのだろうかと心配になる。

 …緊急事態だし、…仕方ないよね。

 彼が入居して来た日に、一緒に入ったきりの部屋。今はもう、色々な物が整然と収まり、すっかり彼の部屋へと変わっている。

 備え付けのベッドと机以外にも壁一面に大きな書棚が置かれており、『霽月の輝く庭』やそれ以外の、見た事の無い様な本が沢山収納されていた。

 棚の一部分のスペースだけ、私にも一つくれた『Orange&Olive』の石鹸の箱が、ぎっしりと入っている。

 ベッドの中で、彼は上を向いてぐっすりと眠っていた。

「……」

 長い睫毛…。
 美しくて思わず、見とれてしまう。


 外国の映画に出て来る、お姫様みたい。


 私からキスをしたら、
 彼にかかっている魔法が、解けるのかな。






『付き合っているうちに、どうせ向こうがぼろを出して正体を現すだろう。それを…待つ!』









 橙子さんが言った通り、彼は『ぼろ』を出した。







 だけど、私は不思議と冷静だった。

 直感で、わかってしまうから。
 誰が自分に悪意を持っているのかは。

 今まで割と、ひどい目に遭ってきたし。


 司君は最初から、優しかった。
 信じずにはいられなかった。


 今はただ、それだけでいい。


 体調が治ったら、ちゃんと教えて貰おう。
 どうしてあんな嘘をついたのか。


 少しだけ彼の額から、汗が噴き出している。

 ベッドの脇に椅子を持って来て座り、柔らかいタオルを、汗が出ている部分にそっと当てた。


 すると。


 急に彼の手が、私の手首をぎゅっと掴んだ。

「…!」

 彼の目が、静かに開いた。

「…びっくりした。…司君、起きたの?」

 彼は私を見ておらず、違う世界を彷徨っている様な表情を見せた。


「…彩月…?」


 …。


 彼はもう一度ぎゅっと私の手首を握ってから、やっと気が付いた様に、目を見開いて私を見た。


「…沙織さん…」


「…気がついた?司君」


 私は彼の額に、そっと手を当てた。

「…少し熱が下がったみたい。良かった」

 彼は暗い自室の中を見回して、息を吐きながら私に尋ねた。

「僕、確か海浜公園で…」

「うん。熱があったんだよ、司君」

「…」

「…何か食べられそう?蒸しリンゴがあるから、持って来ようか」

「…食べたい」


 私は頷いた。


 上気した彼の頬。
 こちらを見ている、潤んだ瞳。


 心細そうな様子の、焦点が合わない目線。



 …胸がきゅんとしてしまう。



「…温かいのと冷たいの、どっちがいい?」

「…冷たいの」

 台所に取りに行こうとすると、彼は私の手首をまた、ぎゅっと掴んだ。

「…司君?」

「…やっぱり行かないで」

「…え?」

「…ここにいて」

 近くにあった椅子に再び私が腰かけると、彼は安心した様に目を瞑って、規則正しい寝息を立て出した。


 私の手首を掴んだまま。


 …今度はどきどきしてしまう。


 司君を永遠に、この部屋に
 閉じ込めてしまいたくなる。


 さっき、彼はお母さんの名前を呼んでいた。
 『彩月』って。


 …自分のお母さんを名前で呼ぶ男の子。
 やっぱり司君は、何だか不思議。


 彼の寝顔を独り占めしながら、
 私も一緒に、眠りそう…。












「…さん」


 …?


「沙織さん」


 ……。


 目が覚めてきた。
 ここは、どこ…?


 カチッと、電気が点く音。


 まぶしい。


「沙織さん、…起きた?」

「…」



 …?



 私は、暖かいブルーのカーディガンを羽織っていた。
 

 …これ、司君の…?
 彼が、かけてくれたのかな…。



 彼は布団の中から、こちらをじっと見つめていた。

「…あ、私寝ちゃったんだ…」

 時計を見ると、夜中の2時。

「…こんな所で寝てたら、沙織さんが熱出しちゃうよ」

 司君の顔を見た。

 まだ少し熱っぽさがあるが、先程よりさっぱりとした表情になっている。

「具合は…?」

「だいぶ良くなった。おかげ様で」

「…良かった」

「沙織さん、蒸しリンゴ食べたい」

「…はいはい」

 私は今度こそ台所へ行って、シャーベット状にした蒸しリンゴを彼に持って来た。

 彼は、皿に入ったそれを見て、きょとんとした。

「…シャーベット?」

「たくさん作りすぎたから、少し冷凍しておいたの。それを細かくピューレして、ちょっとはちみつをまぜたの。食べる?」

「食べたい」

 彼は少しだけベッドから起き上がり、私に向かって目を閉じ、口を開けた。

 

 …まただ。




 食べさせて欲しいんだ…。





「…まだ熱っぽくて、自分じゃ食べられない」

「……」

 いつの間にか、敬語じゃなくなっている。

「お願い、沙織さん」

「……」


 ま、いいか…。
 誰も見ていないし。


「はい、あーん」


「あーん」


 この表情、ヤバい!!
 可愛すぎる!!



 誰にも見せられないし、見せたくない!!!


 
 スプーンに乗っているピューレ状になったリンゴを、彼は羽毛布団にすっぽりと包まれたまま、美味しそうに味わいながら食べている。

 何だか親鳥にでもなった気分。

「…これ、美味しい」

「良かったね」

 リンゴを食べる彼を見ながら、私は言った。

「今みたいに、敬語を使わずにいつも話してくれると、嬉しいかも」

「…そう?」

「うん。敬語使われると、少し距離を感じるから」

 夜中の2時だからかな。
 少しだけ大胆な気持ちで私は
 照れもせず、彼の目を正面から見つめた。

「彼女だし、私。司君の」

 彼は、驚いた表情を見せた。

「…彼女で、いてくれるの…?」

 私は頷いた。

「うん」

 ポロっと自分の口から、思わず本音が飛び出してしまった。

「…本当に…?」

 もう、戻りたくないもの。

「…うん」

 私はあなたの、彼女でいたい。


「…じゃあ」



 彼は、目を瞑った。






「…お休みのキス、して」






 ……あ。





 こうなっちゃうの、忘れてた。





 ……。





 私は少し躊躇ってから、
 彼の頬に、ちょっと触れるだけのキスをした。











「……おしまい?」




「……うん」




 顔が熱い!!








「頬っぺたじゃなくて…」
「おやすみ」








 私は彼の言葉を遮って、
 リンゴの皿を慌てて持つと、
 彼の部屋を後にした。