私は首を横に振った。

「ううん」

 ちらっと、風間さんの顔が浮かんでしまった。

 彼女は多分、黒木君の事が好きなのだろう。騙していたことを、今更ながら申し訳なく感じてしまう。

「自分で決めて、やっていた事だから」

 私がそう答えると、黒木君はふと思いついたように言った。

「お前、あのノートが無くて大丈夫なのか?」

 …ノート。
 …ああ、あの素晴らしい、数学ノート。

 確かに、『彼女のフリ』をしたお礼として、学年トップの成績を誇る彼から貰い続けていた、あの完璧な『黒木直伝・数学ノート』が無くては、私の数学のテスト結果は、超・おバカ状態に逆戻りとなりつつある。

「ノートに頼ってばかりじゃ駄目だし、数学は自力で頑張る。あれから大丈夫?黒木君は」

 壁についた手を放し、
「知りもしない女共に散々付きまとわれてもう、心底うんざりだ」

 彼は私からやっと、体を離した。

「どんなに腹が立っても怒鳴り散らしたり、蹴散らしたりするわけにいかない」

 さらりと恐ろしい事を言う、生徒会長。
 冬の木枯らしよりも、凍り付きそうな発言。

「生徒会は学園の顔だからな」

 でも、中学の頃のイライラしてばかりいた彼を思い出すと、成長して大人になったんだなと、少し感動を覚えてしまう。

「黒木君には協力してくれる人とか、本当の彼女になりたい人が、今は沢山いるでしょう?」

 私じゃなくても。

「……」

 …いないのかな?

「そういう人が早く、現れればいいのにね」

 彼は一瞬、悲しそうな表情で私を見ながら瞳を揺らし、

「分かってねえな、お前は」
 深い深い、ため息をついた。

「俺は、女という生き物が苦手だ」

「…そう…」


 ん?

 …ちょっと待ってよ。
 私だって一応、女なんですけど!!


「お前だから頼んだ」

 黒木君は、私の両肩を掴んだ。
 目を離せない、真剣な表情で。

「…」

 また私、黒木君に急接近されている。
 
「あの図書局の1年生、何だか妙に胡散臭いが、お前は信じてるのか?奴を」

「……うん」

 肩を掴む力が、少しだけ強くなる。

「あいつの方からお前に、付き合いたいって言い出したのか?」

 目の前には、鋭く輝く漆黒の瞳。

「…え?…う、ううん、違うよ!私から彼に、告白したの!」

 黒木君は、その大きな二重瞼をぴくりと揺らした。

「嘘をつくな」

 長い付き合いのため、彼は私の表情からすぐに、真実を読み取ってしまう。

「…嘘じゃないよ…」

「お前は一体、どういう経緯であいつと、付き合い始めた」

「……」

「別に話したく無ければいい。調べる方法は、いくらでもある」

「…黒木君?!」


 どうしてそこまで?!



「水曜日の放課後、図書館で」

 いきなり、誰かの声がした。

「僕に告白してくれました」

 司君が、屋上の入り口に立っていた。

「僕の彼女を追い詰めないでいただけませんか?」

 彼は息を切らし、肩を上下に揺らしている。

「…司君?!…図書局は?」

 急いで駆け上がって来た様子が、その荒い呼吸から伝わって来る。

「今日は別な人にお願いして来たので大丈夫です。…探しました」

 
 黒木君は、彼を睨んだ。


「お前、名前は?噂の図書局」


「白井司です」


 司君は今までに見た事が無い様な、大きく見開いた瞳で黒木君を睨んでいた。
 
「…」

 黒木君は何故か、私を掴む手を離してくれない。

 司君が、こちらに駆け寄ってきた。

「沙織さんを離して下さい」

 彼は私の肩から、黒木君の手をそっと引き剥がした。


「沙織さんは今、僕と付き合っています」

「…」

「触らないでください。僕の彼女に」

 少し微笑みを浮かべながら落ち着き払ってはいるが、司君はいつもと少し様子が違った。黒木君と向き合っている彼は、戦いを挑んでいる様に見える。


 彼は黒木君から私を隠す様に
 私の目の前に立った。


「……!」


「僕達、同じシェアハウスに住んでいるんです」

 
「何………?」


「沙織さんは渡しません」


 黒木君はとても驚いた様子で、ますます不審そうに彼と私を交互に見つめた。


「……」


 絶対渡さないと断言した、司君の声。


「……」


 それが嘘か真実であるかどうかを、疑う必要があるのだろうか。


「……」


 彼の背中は少し震え、まるで命がけで私を守っている様に見える。



「……どうも、納得いかない」



 黒木君は彼に、質問をした。


「本当にお前は有沢から、告白されたのか?」


「そうです」


 私を背中に隠したままの、
 司君の声も少しだけ、震えている。



 黒木君は軽く首を横に振って、



「…もういい」
 彼を強く、睨みつけた。



「有沢」

 黒木君は、私に目を向けて、

「…何?」
彼特有の、よく通る低い声で私に言った。




「調べさせてもらうが悪く思うな。古い友達として、お前が少し心配だ」



 黒木君は急に踵を返し、

「長い付き合いだし、色々世話になっているからな」
早い足取りで一人、屋上を後にした。




 予鈴が鳴った。

 昼休みが終わる合図。



 私は結局お弁当を食べ損ねたまま、
 前後不覚の状況に陥っている。


「…司君…」


「…行かなきゃいけないですね…」


 司君の声は、まだ微かに震えている。


「…うん」



 彼は急にこちらを振り向き、
 私を力強く、抱きしめた。




 ……!!




 あんなに寒かったはずなのに、
 抱き締められた瞬間、
 どんどん体が熱くなっていく。





「…離したくないです」






 掠れた声でそう言って、
 徐々に力を緩めていく。





「…司君…」





 体をゆっくりと私から離した彼は、






「…行きましょうか」


 私の手を取り、前だけを見つめながら静かに、入口に向かって歩き出した。