けれども

「ちゃんと聴いておかなくてもいいんですか?なんで、担当が矢野先生でなく、俺になったかを。」

彼は体勢を崩しながら俺の目の前に飛び込むように体を寄せ、挑戦的な目で俺を見上げた。


『・・・・・・・』


この人、長く語りそうだよな
ついさっきまで、三宅教授や父さんとの会話でも、右耳が聴こえ辛かったから、この人にあんまり長く語られると、もっと余計なエネルギー使いそう

それなら、端的な言葉できちっと説明してくれるタイプの矢野先生を捕まえて聴いたほうが、この後の業務に差し障りが少なそうだ


『病棟のほうで呼ばれているので、失礼。』


耳は聴こえにくいが目は全く問題ない俺は、立ち憚ろうとしている彼をひょいと避けて、歩き始めた。

けれどもどうやら反射神経がいいらしい彼は俺の左側に立って、俺を逃がしてはくれなかった。


「俺はベビーに対して適切な治療を行えるだけでなく、あんたの右耳の聴こえ辛さをも治せる。」

『・・・・・・・・?!』


聴こえるほうの左耳の傍で彼にそう囁かれた。

なんで俺の右耳が難聴状態であることを見抜かれた?

なんで整形外科医師のこの人が
耳鼻咽喉科医師でもないのに、俺の聴こえ辛さを治すことができるなんて言えるんだ?


「あんたの難聴は過度のストレスによるものだろ?後輩が死んじゃったりしたり、NICUのベビーのことも訴訟になるならないで患者さんと病院がモメているんだろ?」

ストレスが引き金になりやすい突発性難聴という状態まで見透かされた。
自分が難聴状態にあることをなるべく周囲に漏らさないように、気をつけて行動していたのに。



「で、例のベビーに適切な治療を行えば、あんたのストレスは完全とまではいかないが確実に減る。」


確かに腕神経叢麻痺(わんしんけいそうまひ)を発症したベビーの一件もストレスとした感じているのは間違いない

ベビーの右腕が動かないという事実は今も続いている
ベビーの母親の精神的ダメージは日々の診察を通じて感じている
ベビーの父親においては、分娩対応に誤りがあったとして、訴訟も検討しているという話も医療相談室を通じて耳にしている

この家族の苦しみ、そして哀しみは、その経験がない俺なんかじゃ計り知れない
この家族のことを想うと本当に胸が痛む
医師として自分がすべきことをしてあげらられなかったことを悔いる

そんな様々な想いがストレスに繋がっているのかもしれない



「そのベビーの治療を適切に行えるのは矢野先生じゃない、俺だ。」