そして彼の足が止まったのは生活感が溢れているキッチン。


「コレ、お前のなんだ・・・・」


そう言いながら彼が私の前に差し出したもの。
それは離乳食を食べる乳児の口のサイズに合うような先端部分がごく小さく柄の長いスプーン。

そして彼は冷蔵庫の野菜室から英字表記のラベルが張り付けられているメープルシロップを取り出す。
そのスプーンに溢れるか溢れないかぐらいのスレスレの量のシロップを注ぎ、それをマグカップの中へ落とした。


「このシロップはさ、親父が生きてた頃に彼が国際学会でカナダに出かけた時に買ってきたモノと同じモノなんだ。」

さっき視線を逸らしたのが自分の気のせいだったかと思うぐらいごく自然な彼の語り口調。


「今は便利だよな、わざわざカナダまで行かなくてもネットで取り寄せできちゃうんだから・・・」


ようやく視線を合わせてくれた彼。
その瞳はやっぱり優しい。

そして彼は、手際良く無調整牛乳をミルクパンに入れて温め、それをシロップが入っているマグカップに注ぎ込んでそれを私に差し出した。

それと引き換えに私の手の中にあったスプーンを彼の手の中に戻すように促す。


『いただきます・・・』

軽く会釈しながらマグカップを受け取った私はそれと引き換えにそのスプーンを差し出す。


「このシロップじゃなきゃ、お前のこのスプーンで量らなきゃ・・・あのホットミルクは作れないんだ。」

私からそれを受け取った日詠先生は、そう言いながら愛おしそうにそのスプーンを指でなぞった。


以前、”そのうちに教えてやる” と言っていた
睡眠導入剤もかなわない私だけの特効薬でもあり
私の大好きなモノの1つでもあるあの懐かしいホットミルク


その作り方を丁寧に教えてくれた彼の横顔は
とても頼もしく
とても身近に感じられるような
兄の顔をしている

日詠先生と私は
兄と妹

だから、いつかは離れなきゃいけないけれど
きっと離れても兄としてこうやってあったかい手を差し伸べてくれる

だから離れなきゃいけないその日が来るまで
この場所で
私にとってかけがえのないこの場所で
私は肩を(すく)めることなく
胸を張って甘えてしまおう


私は彼が自分のためにいれてくれたホットミルクを口に含みながら心の中でそう囁いた。