春の麗らかな休日、時雨はいそいそとイチゴのジャムを作っていた。
 イチゴは旬な時期という事もあり、良質なものが手に入った。
 砂糖と煮詰めている間も爽やかで芳醇な甘い香りがキッチン中に漂っていた。
 時雨はジャムの粗熱をとる為に耐熱容器に移した。
 冷蔵庫の中には下ごしらえをしたイチゴクリームも用意してあった。
 それぞれが上手く合わさって完成したならば、彼女は喜んでくれるだろうかと時雨は期待に胸を膨らませた。

「次は生地か」

 時雨は冷蔵庫から卵を取り出すと、そこでインターホンが鳴った。
 一体誰だろうかと思いながらドアホンを覗くと、そこには隣に住むほのかの姿が映っていた。
 その姿に時雨は舞い上がりたくなるくらい喜びを感じた。
 しかし、彼女は今一番会いたい人でもあり、今一番会ってはいけない人物でもあった。
 だが、無視する事も出来ずに時雨はエプロンを外し玄関へと向かった。

「こんにちは、ほのかちゃん。どうかしたのかな?」

 ドアを開けると、ほのかは困った様な顔をして立っていた。

【こんにちは、宿題で教えて欲しい所があって】

「ああ、なるほど」

 学校の宿題で分からない所があると、ほのかは度々時雨に質問をしたりしていた。
 いつもなら、部屋に入れて一時間でも十時間でもじっくり教える時雨だが、今日ばかりはそうもしていられなかった。

「えっと、どの辺かな?」

 時雨はすぐに教えてあげられる内容ならと思いほのかの持つプリントを覗いた。

【ここ】

『ここ』と簡単にスケッチブックには書いているが、ほのかの指さす場所は複数だった。

「うん・・・・・・、それほぼ全部だね」

 流石に量が多く、玄関先だけでは説明しきれないと判断した時雨は家に招き入れたい気持ちをぐっと(こら)えて言った。

「ごめんね、ほのかちゃん、今ちょっと忙しくて。また後でならゆっくり教えるから」

【分かった】

 ほのかはとても残念そうな顔で立ち去った。
 だが、この時、ほのかはある事が気になって仕方がなかった。




「さて、まずはメレンゲメレンゲ」

 時雨は再度エプロンを着ると、卵を割り、器用に白身だけをボールに入れた。
 泡立て器の速度を高速に設定し、メレンゲを作り始めた。
 半分程泡立てた時、またもインターホンが鳴った。

「あれ、参ったなこんな時に」

 メレンゲは繊細で、途中で泡立てるのを止めてしまうと失敗してしまう為、セールスか何かだったら居留守をしたいと時雨は思った。
 だが、一定の間隔で押し続けられるベルは明らかにほのかが押しているのだろうと考えた。

「うーん・・・・・・」

 少し悩んだが緊急の用だったら困るので、時雨はやり直し覚悟で再びエプロンを外し、玄関の扉を開けた。
 ドアを開けるとそこにはやはりほのかが立っていた。

「ほのかちゃん、今度はどうしたんだい?」

【さっき回覧板持ってくるの忘れてたから】

「あ、ああ、回覧板ね。ありがとう」

 時雨は回覧板を受け取るとすぐにドアを閉めようとした。
 だが、ほのかはそこで時雨の手を引っ張った。

「あれ、まだ用事があったかな?」

【さっきも思ったけど、なんだかいい香りがする】

 まずいと思いながらも時雨はいつもの笑顔のままで言った。

「そう? 気の所為(せい)じゃないかな」

【これはイチゴの香り!】

 ほのかは確信した顔でスケッチブックにそう書いた。

「ああ、イチゴか、そういえばさっきアロマディフューザーのオイルを(こぼ)してしまってね。その香りだと思うよ」

 内心はヒヤヒヤしながらも時雨は嘘を貫き通した。
 ほのかも、アロマの香りだという事を残念に思い、【なんだ、お菓子じゃないのか】とスケッチブックに書き自分の部屋へと戻って行った。
時雨はドアを閉め、鍵を掛けると笑顔の表情を崩し、冷や汗を流した。

「なんでこんな時だけ鋭いんだろう。危うくバレるところだった」

 ここでバレるわけにはいかない、ちゃんと完成したら見せて驚かせたいと時雨は思っていた。
 だが、キッチンに戻ってみるとメレンゲは泡がすっかり消え、最初からメレンゲを作り直す羽目になった。




「よし、あとはオーブンで焼くだけだね」

 天板の上に並んだピンク色の生地を見て時雨は満面の笑みを浮かべた。
 余熱していたオーブンにそっとそれを入れ、生地が焼けていく様子を見守っていた。
 だが、そんな時、またもインターホンが鳴った。

「う、まさか・・・・・・」

 ドアホンを覗けば、やはりそこにはスケッチブックを抱えた少女が居た。
 ここでオーブンから目を離すわけにはいかないと分かりつつも、無視する事が出来ない時雨はまたまたエプロンを外して玄関の扉を開けた。

「今度は何かな?」

【もう大分時間経ったから、そろそろ宿題教えてくれるかなと思って】

 ほのかはスケッチブックを掲げてにっこりと笑った。
 その笑みには裏もなければ表もない、純新無垢という言葉が似つかわしかった。
 時雨はその可愛さに精神がやられ、今すぐにでもお持ち帰りして、抱きしめて、あれやこれやをしたい衝動に駆られたが、紳士的なスマイルをしてみせ必死に耐えた。

「ごめんね、まだ用事が終わらなくて、あともうちょっとなんだけど・・・・・・」

そう言うと、ほのかはしゅんとした顔をし、時雨は罪悪感に苛まれた。
あれが完成すれば一日中だって勉強を教える事が出来るのにと何度も思った。
時雨がそんな事を考えている間、ほのかは漂う香りに己の嗅覚を研ぎ澄ませていた。

【やっぱりいい匂いがする】

「うっ!」

【例えて言うなら】

 ほのかは少し迷いながらもその香りの正体を当てようとした。

「うん、例えなくていいからね、というか例えないでくれるかな、お願いだから」

 時雨は焦りを隠しつつ、早くオーブンの元に戻るべくほのかの向きをくるりと変えると背中を押して隣の家に帰らせようとした。

【今度はこうばしい香りがする】

 そんな時雨にほのかは抵抗する様に後ろの時雨にスケッチブックを掲げて見せた。

「えっ、こうばしい・・・・・・ああっ、まずい!」

 時雨は急いで部屋に戻り、鍵を掛け、オーブンを開いてみると、そこには黒々とした塊が並んでいた。
 オーブンにタイマーを掛けず、ベストなタイミングで温度調整するつもりだったのだが、そのタイミングを失ったのが焦がした原因だった。
 時雨はまたまたやり直す羽目になった。



「はあ・・・・・・やっと、やっと出来た!」

 時雨は皿の上にのせたピンク色の丸い洋菓子を見て感無量と言わんばかりに喜んだ。
 いつもなら、もっと早く作る事が出来るのだが、今回はかなりやり直してしまっていた。
 それだけ難易度の高いお菓子とも言えた。
 時雨は紅茶の用意をした後、早速ほのかをメールで呼び出した。




 メールに既読のマークが付くと、ほのかはすぐに宿題を持ってやって来た。

「いらっしゃい、待たせたね」

 ほのかをリビングに通して座らせると紅茶と一緒に洋菓子を差し出した。
 その小さく可愛らしいピンクのお菓子を見てほのかは驚いた。

【マカロン!】

「うん、ストロベリーマカロンだよ。今日ホワイトデーでしょ? だからほのかちゃんの為にかなり頑張って作ってみたんだ」

【凄い! ありがとう】

 マカロンはケーキ屋等で売っているのをほのかは見ていたが、値段も高めで滅多に食べる事がなかった。
 手作り等あまりした事のないほのかでも、マカロンを作るのはかなり難しいと知っていた為、目の前のマカロンの出来栄えに感動していた。
 早速一つ手に取ろうとした時、時雨がその手を掴んで止めた。
 ほのかはその謎の行動にきょとんとした顔で時雨を見た。
 時雨の顔はいつもの笑顔だったが、その笑顔にどこか含みがある様に見え、ほのかは嫌な予感がした。

「まずは宿題をやろうか、一問解く度に一つ食べていいけど、手を使って食べたらダメだからね」

【じゃあどうやって食べるの?】

 ほのかはまさか犬や猫みたいに口だけを使って食べないといけないのだろうかと想像した。

「それはね・・・・・・」

 時雨は天使の様な笑みで悪魔の様な言葉を紡いだ。




「はい、良く出来ました」

 ほのかは今の状況に困惑していた。
 毎度ながらどうしてすぐに流されてしまうのかと少し反省していた。
 ほのかは今、後ろから時雨に抱きかかえられながら宿題をしていた。

「ご褒美のマカロンだよ。はい、あーん・・・・・・」

時雨はマカロンを手に取りほのかの口に近付けた。

【時雨兄、恥ずかしいよ。自分で食べる】

 ほのかは身動ぎをして後ろを向いた。
 恥ずかしそうに頬を染めながら、潤んだ瞳でスケッチブックを見せる姿に時雨はますます悪戯心が湧き上がってきた。

「ダーメ、今日は珍しく何回も家を訪ねてきたでしょ? よっぽど構って欲しかったのかなって。だからうーんと可愛がってあげようと思ったんだよね。ほら、口を開けて?」

 ほのかは降参して口を開き、マカロンを一口食べた。
 サクサクとした甘いメレンゲ生地に、イチゴのジャムとクリームの甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。

「どう? 美味しい?」

【すごく美味しい! トレビアーン!】

「ふふ、良かった」

 美味しそうにマカロンを食べる姿を見て時雨は作った甲斐があったと思った。

「はい、じゃあ次の問題ね。まだまだ問題もマカロンも沢山あるよ」

【この体勢まだしないとダメ?】

「ダメだよ」

 時雨は笑顔で即答した。

【恥ずかしくて集中出来ないよ】

「そう? 集中力が鍛えられるかもね」

 時雨はほのかを正面のプリント用紙に向き合わせると後ろからぎゅっと抱きしめ耳元で囁いた。

「そんなに早く終わっても面白くないからね」

 それはほのかには決して分からない囁きだった。
 だが、耳を真っ赤にさせているほのかの姿を見て、時雨は更に愛おしく思った。
 問題は解き始めたばかり、いっその事どうやって邪魔をしようかと時雨はそんな事を考えていた。
 まだまだ二人の甘い時間は続きそうだ。