Spicy Kitchen




 ほのかは今日という日をとても楽しみにしていた。
 清潔感があって、ステンレスの流し台が並び、壁には食中毒予防や食品の栄養グラフ等のポスターがそこかしこに貼られている普段はあまり入る事のない教室。
 作業台にはニンジン、玉ねぎ、ジャガイモ、牛肉の材料が並んでいた。
 調理実習、そんな特別な授業の日に生徒達は三角巾とエプロンを身につけ、いつもとはまた違う姿がほのかには新鮮に感じられた。
 ほのかもまた今日はいつもは下ろしている長い髪をポニーテールにしていた。

「皆さ~ん、今日はぁ、カレーを作りま~す。手順はぁ前回配ったプリントの通りに進めて下さ~い。因みに、仕上がりは家庭科の成績に関わりま~す。不合格な班はぁ補習を受けてもらうから真面目に作ってね~」

 家庭科担当の落合先生はのんびりとした口調で言った。
 カレー、ありふれている料理だがほのかはそれがとても好きだった。
 一人暮らしをしているほのかは食事に困った時は取り敢えずカレーを作り、それで数日は過ごす。
 下手をすると月の半分はカレーを食べているが全く飽きる事はなかった。
 ほのかは袖を捲り準備は万端だった。

「月島さん、やる気満々だね。そんなに調理実習楽しみだった?」

 話し掛けたのは席順で同じ班になった冬真だった。
 冬真のエプロン姿は意外と似合っていて、ギャルソンエプロンなんかも良いかもしれないとほのかは密かに妄想した。

【インド人の血が騒ぐ位には楽しみ!】

「そう、月島さんはインド人ではない筈だけど、楽しみなら何よりだ」

 そう言ってふっと柔らかい笑みを見せる冬真にほのかはドキリとした。
 出会った頃からたまにしか見せない笑みだが、それでも最近はほんの少しだけその表情を良く見るようになった気がしてほのかは嬉しくなった。

「やあ、氷室君と月島さん、今日は同じ班だな。頑張って激ウマなカレー作ろうじゃないか!」

「よ、よろしく・・・・・・」

 暑苦しいこの男子生徒は佐田島 健(さたじま たける)といい、いつも元気が取り柄の様な男だった。
 その隣の黒のロングヘアでやや緊張した様子の女子生徒は鈴村 花梨(すずむら かりん)といい、生まれつき病弱で欠席する事も多く、青白い肌色は少女の薄幸さを物語っていた。

「ああ、よろしく。鈴村さんは久し振りだな。体調は大丈夫なのか?」

「まあまあよ。べ、別に今日調理実習があるから登校した訳じゃないんだからね!」

 そう言って花梨は警戒する子猫の様に健の大きな背の裏に隠れた。

「それじゃあまず材料を切ろうか」

 冬真はこのメンバーだと仕切る者は自分しかいないだろうと察した。

「じゃあ俺は野菜を洗っていくから佐田島と月島さんはニンジン、鈴村さんはジャガイモを頼む。俺は玉ねぎだな」

【分かった!】

「おう、任せとけ!」

「じゃ、ジャガイモ・・・・・・わ、分かった」

 三人がまな板や包丁を用意している間、冬真は手際良く野菜を洗っていった。




 ほのかはニンジンの皮をピーラーで剥いた後、適度な大きさにニンジンを切っていた。
 ふと、陽太はどうしているだろうかと気になり姿を探してみた。
 斜め後ろのグループで相変わらず男子にも女子にも周りを囲まれ楽しそうにしている様子だった。
 だがそんな時、ほのかは自分の頬に触れる手に驚いた。
 見ればその手の正体は冬真だった。
 冬真の手はゆっくりとほのかの顔を正面へと戻した。

「月島さん、ちゃんとこっち見て・・・・・・」

 一体何故そんな事を言い出すのか訳が分からないままその触れる手に、その顔の近さにほのかはドギマギしているとズキリと痛みが走った。

「でないと、手を切るから・・・・・・ってもう遅いか」

 ほのかは恐る恐る自分の左手を見た。
 人差し指の指先から血がジワジワと溢れ出てくるのを見てほのかはパニックになった。

【血が! 救急車!】

「落ち着いて月島さん、傷は浅い。スケッチブックに文字を書く前に手当した方がいいだろう」

「痛っ! わ、私も手切った!」

 今度は花梨が指を切ってしまった。
 花梨の手には包丁が握られ、ジャガイモは無惨にも大きな窪みを作りながら皮を剥かれ、不格好かつ小さくなってしまっていた。

「鈴村さんはジャガイモの皮はピーラー使おうか・・・・・・」

 花梨の不器用さに冬真はげんなりとしながら言った。

「大丈夫か、花梨! 僕が手当をしてやろう」

 健は花梨の手を取るとあろうことか傷口を舌で舐めた。

「ひいぃぃぃっ! あ、あ、あ、あんた! 何してんのよ気持ち悪いっ!」

 手のザラりとした舌の感触に花梨は蒼白な顔をますます青くさせ、奇声を上げ手を慌てて引っ込めた。

「何って、手当だ。傷口は舐めとけば治るだろ?」

「そんなんで治る訳ないじゃない! こんの変態が!」

 二人がそんなやり取りをしている間、冬真は一人冷静にポケットから絆創膏を取り出した。

「月島さん、片手だとやりにくいだろ? 手見せて」

 ほのかは冬真に手を触れられ狼狽えた。
 自分で出来るとスケッチブックに書こうとしたが片手を塞がれては文字が書けず、何とか手を振り回し意思表示をしようとした。

「おい、そんなに手を動かしたら貼れないだろ。それとも・・・・・・鈴村さんみたいに指、舐められたい?」

 そう言って冬真は小さく舌を出し、真っ直ぐに瞳をほのかに向けた。
 まるで誘惑をする悪魔の様な表情の冬真にほのかはゾクリとし、悪い魔法にでも掛かったように顔の温度は急上昇した。
 このままでは本当に舐められてしまいそうだと思ったほのかは手を振るというささやかな抵抗をやめ、かわりに首を横に振った。

「ふん、やっと大人しくする気になったようだな」

 ほのかは冬真に指を触れられている間、ずっと変に緊張が伝わらないかと震えないようにするので精一杯だった。
 丁寧かつ手際良く絆創膏を貼り終えた冬真はほのかの手を離した。

「ほら、出来た」

【ありがとう】

「鈴村さんも絆創膏・・・・・・」

 冬真が絆創膏を差し出すと言い終わらない内に健が絆創膏を受け取った。

「氷室君、ありがとう! あとは任せるんだ、僕が絆創膏を貼ってあげるとしよう」

 だが、今度はその絆創膏を花梨が横から奪い取った。

「いーから! あんたは私に近寄らないでよね!」

「ちょっと指を舐めただけなのにまだ怒っているのか? これからもっとあれやこれやをする計画なのに先が思いやられるなぁ」

「なっ、なっ、何を言ってるのよあんたは! いったい何の計画なのよっ! バッカじゃないの? この変態!!」

 花梨は青かった顔を今度は赤くさせていた。
 嫌がった素振りをしつつも他の人には見せない生き生きとした表情をする花梨と、空回りする事が多いがいつも花梨を気にかける健、仲が良さそうに見える二人をほのかは微笑ましく思った。