立ち去ろうとする彼女の背中に向かって雪次郎が口を開く。

「分かった、辞めるよ」
「えっ……」

初音は思わず振り返ってしまった。
彼があんな不条理な内容を承諾するとは考えていなかったから。

彼は本気だった。
だからこそ、こんな試すような事を絶対に言ってはいけなかった。

もう本当に後には引けない――…

「辞めたら、初音さんはこれからも俺と会ってくれるんでしょ?」

彼の問い掛けに初音はコクンと頷いて「そうね」と言った。
それを確認すると、雪次郎は男性でありながら花のような愛らしい笑顔を見せる。

「初音さん、連絡先教えて」
「う、うん……」

初音と雪次郎はそれぞれのスマホを持ち出し、互いの連絡先を交換した。

「また連絡するから!」

雪次郎はそう言って、初音の前から去っていく。
彼は少し進んでは振り返って手を振った。
そのたびに、初音も小さく振り返した。
子どもが小学校に出掛ける時にお母さんにするみたいな感じ。

彼が振り返るたびに初音の胸の奥はチクチクと痛んだ。
白い紙の上に一点だけ染み込んだ黒い罪悪感。
それでも、“彼が納得したならいい”と思うしかなかった。