真剣だけれど、どこか楽しそうで、今からどこか知らない所へ散歩に行く、そんなワクワクしているような表情になったのだ。
 そして、彼がピアノに触れた瞬間。彩華はハッとした。
 流れるような旋律を指で滑らかに奏で、部屋の雰囲気が一気に変わった。
 彩華は驚き、思わず声が出そうになってしまったのを、グッと飲み込んだ。
 葵羽が引いてくれたのは、ドビュッシーの「月の光」だった。
 それは、彼のイメージによく似ていると、彩華は思った。
 彼が最後まで弾き終わると、彩華は拍手をした。

 「すごいです!とっても綺麗な月の光ですね。こんなに手が滑らかに動くのなんて、初めてみましたー」
 「ありがとう。ピアノ曲に詳しいですね」
 「あ、私ドビュッシーの曲が大好きなんです。月の光は特に………だから、驚きました!」
 「……そうなんだ。じゃあ、この曲を選んでよかったです」


 葵羽はそう言うとまた優しく笑ってくれる。いつもより楽しそうな笑みに見えて、彩華は彼がピアノがとても好きなのだとわかった。


 「アラベスクも好きですし、ゴリウォーグのケークウォークも好きなんです。ゴリーウォークのケークウォークは指が跳ねたりもして、遊んでるみたいですよね………って、難しくて私は何も弾けないのですが」


 彩華は好きなドビュッシーの話をすると、葵羽は「オーケー」と言って、すぐに鍵盤の上に指を置いて、ゴリーウォークのケークウォークを弾き始めた。好きな曲の演奏に、彩華は「わぁー」と小さく声を上げながら彼の手の動きを見つめた。細く長い指が行ったりきたりして踊っているようだった。
 この曲は黒人の人形がぎこちなく踊ったり転んだりしてコミカルな動きをしているところを描いていると聞いたことがあった。音もそうだが、手の動きもそれを模しているようで、彩華はこの曲を弾いている手を見るのも好きだった。
 けれど、難しい曲なので、自分で弾けるわけでもなかった。そのため、それを軽々と弾きとても楽しそうにしている葵羽を見て、感嘆の声をあげてしまうのだった。