その日はもう何もする気力は出なかった。
海辺に近いこの借家。
海に()うように流れるこの道路をただ歩いていた。
はるか向こうがかすみ、空と海との境界線がぼやけて見えている。
いろんなことが頭の中を駆け巡っては消えていく。
記憶があることがこれほど苦しいことだと、沙織の様に何もかも消えてしまえば……。

道沿いの家の庭に咲いている、(あおい)紫陽花(あじさい)に目がとまった。
確かこの時期だった。
沙織と初めて出会ったのは……。
あの街に咲いていた紫陽花の花も、(あお)色していたのを思い出す。

学生時代住んでいたあの街のアパートのことは、今でも時々思い出すことがある。ブルーの屋根に、リフォームした後がよくわかる築25年ほどのアパートだった。
思い出がたくさん詰まっていた。いや詰まり過ぎていたと言っても、大げさではない……。僕にとっては。
ほんの数か月の間だったけど、沙織とともに暮らすことが出来た思い出でのアパートだ。

俺と沙織の物語は終焉している 。

田中から言われたこの言葉を聞いた時、今まで何かに支えられていた僕の想いは、崩れるかのように流れ出した。
どうして、また僕は沙織に出会ったんだろう。
偶然? それとも必然なのか。
サイン会の後、あの街に足を踏み入れたからだろうか。だとするならば、これも『運命の悪戯』が呼び寄せた再会だったのか。
だとするならば、それは何の意味を持った再開だったんだろうか。
終焉している。
そんなこと……。そんなこと、沙織の記憶が、僕だけの記憶が消えさった時からわかりきっていることだろ。
ただの未練が今まで僕をささえていたのかもしれない。
あの時見た沙織の姿は何も変わっていなかった。
彼女はもう新しい幸せを掴んでいるかもしれない。

それでも、僕の目に映った沙織の姿は、何も変わっていなかった。
僕の目にはそう見えた。
もしかしたら、変わっていったのは……僕の方かもしれない。

昼すぎから外は雨が降り出していた。
スマホにSNSのメッセージが着信した。
「どうしたん? 優子さんと喧嘩でもした?」
美野里からだった。
「どうして?」
「優子さんからさっき電話あったから、泣いてたんだ」
いつもはメッセージだけだったが今日は思わず通話モードに切り替えた。
美野里は、彼女が崇拝する作家、榊原枝都菜(さかきはらえつな)の下で作家としての修行を望、北海道に移住した。
高校時代何度も何度も美野里は、榊原枝都菜に弟子入りの申し出をしていた。だかことごとく断り続けられていた。それでも美野里はあきらめなかった。
そんな美野里の強い意志に榊原枝都菜はある条件を出した。それは彼女が指定する大学に合格することだった。
美野里は僕とあの頃付き合いながら、しっかりと自分の向かうべく道に向かっていた。

美野里は榊原枝都菜の指定する大学に合格し、自らの願いをかなえた。だが、それは同時に僕との別れを意味することだった。
その後、美野里の所属する大学の病院で美野里は声を、話せるようになることが出来ることがわかった。
その時美野里の担当をした当時研修医だった人と美野里は結婚をした。
今では大分普通に、ほとんど今まで話すことが出来なかったなんて嘘のようなことだと思えるほど話せるようになった。だがあまり長い時間は彼女にとってまだ相当負担になるらしい。だから美野里とは、ほとんどメッセージだけでお互いの近況を連絡し合っていた。

「珍しい! 達哉が通話してくるなんて」
「ああ、優子が泣いていたって……」
「う―ん、泣いていたっていうのは大げさかもしれないけど、何となく涙声だったように聞こえたんだ。それにいつもと様子が違うし」
「何か言っていなかったか?」
「特にはね。どうしている? なんてたわいもないことだったけど。でも今新作で行き詰っているって言っていたなぁ。相当来ているみたいだったよ」
「そうか」
「うん、それとね。『亜崎君にふられちゃった』て言っていたけど、どういう事? もしかして、優子さんに告られた!」
「…………」
「亜崎達哉、何立ち止まっている。まだ過去の恋に浸っているの? いい加減にしな! 元恋人の私……、ううん、今の私だから言える。優子さんの気持ちちゃんと受け止めて。もう過ぎたことにとらわれないで。……ご、ごめん。もう喉限界」
「ごめん、無理させちゃって。美野里、すまん。これから優子の所に行ってくる」
通話を切った。
メッセージが美野里から届く。
「ちゃんと優子さんと向き合いな。優子さんのお母さん、枝都菜さんには黙っておくから」
「ありがとう。美野里」

外はまだ雨が降っていた。
この雨は僕の心の雨だろうか。いや違う。この雨は僕を支えてくれる人たちの雨だろう。きっと、この雨の雫一つ一つで、僕のこの氷付いた心を溶かしてくれているんだとそう思えた。

夏になる前の雨は、気持ちを柔らかにしてくれる。