カーテンの隙間から差し込む細い太陽の光で、朝が来たんだと実感する。
 初めてのキス。
 憧れの人が、わたしの恋人になった。
 一生恋など出来ないと思っていた。
 今でも、夢だったんじゃないかと不安になる。
 
 会社に行けば、また彼に会える。
 昨日一緒に過ごしたのに、またすぐにでも会いたくなる。
 わたしは、急いで身支度を済ませると、母が用意してくれた朝ごはんを食べて家を出た。
 今出たら、いつもより早い電車に乗れる。

「それじゃ、行って来ます」
「行ってらっしゃい」
「そうだお母さん。今晩、椎名さんの家に寄って来てもいい?」
「いいわよ。それじゃ、夕食は要らないわね?」
「うん。何か一緒に食べて来る」
「わかったわ。ゆっくりしていらっしゃい。だけど、明日も仕事だって事を忘れないでね」
「うん」

 玄関の扉を開けると、その先にある柵の向こうに彼の姿が見えた。

「椎名さん!」
「よっ。おはよう」
「おはようございます。一体どうしたんですか?」
「おいおい、朝になったらまた他人っぽいな。敬語は無し。それと、名前で呼んでって言っただろ? 俺達付き合ってるんだから」
「わ、わかった」
「今日は早いじゃん」
「うん。いつもより早い電車に乗ろうと思って」
「それって、少しでも早く俺に会いたいからって事?」

 う……
 そうだけど、そう言われると素直に認めたくなくなっちゃう。

「違うよ。今日はお茶当番だからよ」
「な~んだ」
「それより、どうしてここに?」
「迎えに来たに決まってるじゃないか。会社まで待てない。早く顔が見たかったんだよ」

 顔が熱くなる。
 きっと赤くなってるはず。
 色白のわたしは、暑くても、お酒を飲んでもすぐ顔に出る。

「さっ、乗って」
「あ、ありがとう」

 凄く嬉しい。
 普通に電車に乗っていたら、彼とは四十分後にしか会えなかった。
 わたしって可愛くないな。
 さっき素直に認めていれば良かった。
 ちょっぴり後悔。
 車は、左折すると大通りに出た。

「なあ清美。これから毎日迎えに来てもいい?」
「えっ? いいけど、大変じゃない? うちに寄るより、真っ直ぐ会社に行った方が早いでしょ?」
「そんな事は心配しなくていい。俺がそうしたいんだから」
「……だったらお願いしようかな? わたしも、毎日少しでも早く純平さんに会いたいから」
「おっ、素直じゃん」

 恥ずかしい。
 だけど、素直に言えて良かった。

 彼は、一緒にいる所を会社の誰かに見られないようにと、少し手前のビルの前で降ろしてくれた。
 有り難い。
 まだ、堂々と二人で出勤と言うのには抵抗がある。
 しばらくは、誰にもバレたくは無かった。
 特に、安田さん……
 彼女がどう思うか考えただけで憂鬱になる。
 勝手に彼と付き合っていると思い込むような人だ。
 そんな人が、あっさり彼を諦めてくれるとは思えなかった。
 彼は、わたしを守ると言ってくれた。
 その言葉は信じている。
 それでも、言いようの無い不安が心の奥底から湧いて来る。
 それから、めぐみもそうだ。
 この前、純平さんとは付き合っていないと言った。
 めぐみが純平さんの事を好きなのも知ってる。
 そんな彼女が知ったら、今まで通りの関係が崩れるんじゃないか。
 高校の時いじめてきた奈々美みたいに、親友から真逆の人になってしまうんじゃないか。
 それを考えるととても怖かった。

「おはよう清美。あれっ? 今日電車じゃないの?」

 会社の前でめぐみに会った。

「ねぇねぇ、駅と反対方向から来たよね?」
「う、うん……」

 ロビーに入る。
 エレベーターが開くと、地下の駐車場から乗って来た彼が中に立っていた。

「おはよう、めぐみちゃん」
「椎名さん、おはようございます。あの、金曜日はすみませんでした」
「いいのいいの。それにしても二人ともよくもまあ、意識無くなるまで飲めたよな」

 めぐみは恥ずかしそうに体を小さくした。

「今度また三人で飲みに行こうか。と言っても、今度はノンアルね」
「ありがとうございます!」

 めぐみ、嬉しそう。
 わたしもそうだった。
 ちょっと声を掛けてもらえるだけで、その日一日がハッピーだった。
 ついこないだまで、わたしもめぐみと同じ立場だった。
 それが、今は恋人同士。
 本当に自分でいいのかと不安になる。
 その時だった。
 彼がいきなり耳打ちして来る。

「いや、でも……」
「大丈夫。めぐみちゃんなら絶対大丈夫」

 彼が、わたし達が付き合う事になった事を、めぐみに話そうと言った。
 そして、躊躇するわたしに、めぐみなら絶対大丈夫って言ってくれた。
 信じていいよね?
 わたしは覚悟を決め、頷いた。

「めぐみちゃん、実は俺達付き合う事になってさ」
「えっ! 清美とですか?」
「ああ。めぐみちゃんは清美の親友だろ。だから力になって欲しいんだ」
「もちろんです。清美、良かったじゃない。わたし応援するよ」
「本当に?」
「当たり前じゃない。わたし達、親友でしょ?」
「でも、めぐみも椎名さんの事……」
「ああ、だから心配してるの? 彼と付き合ったら、わたしが意地悪するとでも? ばかねぇ。そんな事するわけないじゃん。おめでとう。応援するよ」
「ありがとう、めぐみ」
「でも社内には、椎名さんファンがたくさんいるからね。わたしみたいな人ばかりじゃない事、覚悟しなきゃね。だけど、わたしはいつでも味方だから」
「うん」

 めぐみの存在が有り難い。
 入社して、同期の中で一番気の合う親友。
 彼女がいてくれるお陰で、過去の自分から随分成長出来た気がする。
 そんなめぐみにも、腕の傷の事はまだ話していない。
 言ったらどうなるのだろう。
 純平さんみたいに、何も変わらず接してくれるかな?
 それとも、嫌いになるかな?
 後者だったらどうしようと思って、告白出来ないでいる。

 昼休み。
 わたしとめぐみと純平さんの三人で食事をしていると、そこにまた安田さんがやって来た。
 いつ見ても怖い。
 だけど、今日は純平さんもめぐみもいてくれるから大丈夫だよね?

「ちょっと純平、この頃よくわたし以外の女の子とつるんでない? わたしの事は全然誘ってくれないんだから」

 口を尖らせている。
 だけど、本気で怒っているわけではない。
 やや甘えた表情が見え隠れしていた。

「なあ安田。お前いつまで勘違いしてるんだ?」
「何をよ?」
「俺、お前の事を思っているわけでもないし、付き合ってもいないんだぞ」
「またまた、何照れちゃってるのよ。あなたはわたしの事が好き。わかってるんだから」
「俺さ、清美と付き合う事にしたんだ」
「えっ? 清美って、もしかしてここにいる小田さんの事?」
「ああ。だから、もう誤解するような事は言わないでくれないか?」
「ちょっと待ってよ。わたし達、今まで良い関係だったでしょ? 小田さんが入社するよりもずっと前から。それなのに何? この子、泥棒猫?」

 怖い。
 どうしてこんなに思い込みの激しい人なんだろう。
 自分と純平さんはお互いに愛し合っていると思い込んで疑ってもいない。
 だから、後から入って来た私を泥棒猫だなんて言えるんだ。

「安田さん、勘違いし過ぎですよ。椎名さんは昔からあなたの事は何とも思っていなかったんです。それを、あなたが勝手に」
「どうしてあんたなんかに、そんな事言われないといけない訳?」

 めぐみの言葉を聞いて、安田さんのキツイ顔が、本気モードで恐ろしくなった。
 わたしは何も言えない。
 何て言ったらいいのかわからない。

「とにかく、俺の彼女はこの清美だから。もし、彼女に何か危害を加えたら、この俺が許さない」
「純平……」

 安田さんは、それ以上は何も言わず去って行った。
 それでも、わかったとは言わなかった。
 本当にこれで諦めてくれるの?

「あいつの顔、怖いよな。清美、あいつから何か言われたら、すぐに言えよ」
「うん」
「椎名さん、倉庫ではわたしがいつも一緒ですから安心して下さい。いくら安田さんが先輩だとはいえ、理不尽な事をして来たら、わたしが応戦しますから」
「めぐみちゃんって、たくましいよね」
「小さい頃から、兄二人に鍛えられて来ましたから」
「だけど、凄く女性っぽい優しさもあって、そのギャップに魅力を感じるよ」
「椎名さん、そう言う発言はやめて下さい。特に清美の前では。この子、凄く気にしますから」
「ごめんごめん」
「椎名さん、わたし平気です。そもそも、女性に優しいあなたを好きになったんですから」
「おいおい、名前で呼んでって言っただろ? それから、敬語も禁止」
「いや、会社では無理ですよ。二人っきりならまだしも」
「いいじゃん。オープンにした方が、悪い虫も付かないしさ」
「悪い虫って……」
「例えば、メーカーの営業とか。坂野君だっけ? 彼が倉庫に来たら絶対清美に話しかけているだろ?」
「い、いつの間に見てるんですか?」
「坂野君、総務に寄って、次は倉庫に行くだろ? 来たらその後、こっそりついて行ってたんだよ」
「椎名さん、いつ頃から清美の事が好きだったんですか?」
「うーん。半年位前からかな?」
「そんなに前から?」

 知らなかった。
 純平さんがそんなに前からわたしを見てくれていたなんて。

「椎名さんご心配なく。坂野さん、結婚してるし、お子さんもいるんですよ」
「そうなの? 何だ。でも、彼ってまだ君たちよりちょっと上くらいだろ?」
「ええ、確か二十三歳くらいです。授かり婚なんですって」
「へぇ~。めぐみちゃんって、情報通だね」
「こう見えても、人脈広いですから」
「よし、それじゃわからない事があったら、まずめぐみちゃんに聞こう」
「お任せ下さい」

 めぐみはそう言うと胸を張った。
 わたしも、何か自信を持てる事があればいいのにな。

「あー、でも今日はすっきりした。あれだけはっきり言えば、安田もわかってくれるはずだよな」
「そうですね」

 と言いつつも、わたしの心から不安は取り除かれてはいない。

 終業時間が来た。
 三十分残業したわたしは、めぐみと一緒にロビーに降りた。
 今日はこれから純平さんの家に行く。
 めぐみと別れ、ロビーにあるソファーで彼を待った。
 総務部ももうそろそろ終わる頃。
 と、すぐに純平さんがやって来た。

「お待たせ」
「お疲れ様」
「それじゃ、帰ろうか」
「うん」

 一緒に地下の駐車場へ向かう。
 純平さんと一緒の所を誰かに見られたら恥ずかしいと思っていたけど、幸い誰とも出会わなかった。
 
「家に行く前に、何か食べて帰ろう。何が食べたい?」
「何でも。純平さんに任せるよ」
「うん……それじゃ、ラーメンでも食って帰るか」
「いいわね」

 わたし達は、帰り道にあったラーメン屋に入った。
 今の時間は外で待っている人はいない。
 それでも、店内に入るとほとんどの席が埋っていた。

「人気あるね、ここ」
「味がいいからね」
「よく来るの?」
「そうだな、週に一回は来てるかな」
「そうなんだぁ」

 話を聞くと、純平さんは週に三日は外で食べて帰るらしい。
 その他の日は自炊。
 と言っても、平日はご飯だけ炊いて、おかずは惣菜で済ませる事が多いそうだ。
 帰りが遅いからね。
 その代わり、休日は結構凝った料理をする。
 元々、料理を作るのは好きみたい。
 わたしは毎日母が作ってくれる料理を食べる。
 自分で料理するって事、ほとんど無いから手際も良くない。
 こんな時に、何か作ろうか? って言える彼女になりたい。
 今度お母さんから習おう。

 彼のマンションに着いた。
 駐車場に車を停め、部屋に上がる前に海を見に行く。
 
 波は穏やかだった。
 近くの砂浜では、花火をしているグループもいた。

「そういえばわたし、夜の海って初めてよ」
「そう?」
「うん」
「ねえ、今度水着持って来ない? 夜の海で一緒に泳ごう」
 
 そうか。
 夜だったらいいんだ。
 腕の傷を気にする事も、スタイルの悪さを気にする事も無いんだ。

「わかった。今度水着買って来る」
「是非、ビキニで宜しく」
「それは無理」
「いいじゃん。暗くて見えないからさ」
「それでもイヤだ」

 そんな話をしながら部屋に戻った。

「さて、今日は何する?」
「えっ?」
「テレビ観る? ゲームする? それとも……」

 それとも、何?
 何だかドキドキしてきた。

「本でも読む?」
「はぁ?」

 予想外の質問に思わず前のめりになる。

「清美、今エッチな事考えただろ?」
「そ、そんなわけないでしょ!」

 といいつつ、こんなにあたふたしてたらバレバレだよね。
 あ~恥ずかしい。
 どうしよう……

「いいよ~。しちゃう?」
「えっ!」

 絶句。
 どうしよう。
 どうしたらいい?

「バーカ」
「えっ?」
「ちょっとからかっただけだよ。清美とはもっとゆっくり付き合っていきたいんだ」

 そう言うと、純平さんはわたしのおでこにキスをした。

「純平さん」

 思わず彼に抱きつく。
 彼も優しく抱きしめてくれた。
 あっ……
 こないだは意識してなかったけど、噂通り胸板厚いかも。
 気持ちが落ち着く。
 こうして純平さんに抱きしめてもらうだけで、こんなにも心が落ち着くなんて。

「清美。愛してるよ」
「わたしも愛してる」