「痛っ……」

 頭が痛い。
 うん?

「めぐみ?」

 ベッドの下に布団が敷かれ、そこに彼女が寝ていた。
 これって……。

「あら、起きたのね」

 扉の向こうに母親が立っていた。

「お母さん……」
「夕べは散々だったわね」
「わたし達、どうやって帰って来たの?」
「何も覚えてないの?」
「うん」
「あなた達、どれだけ飲んだのよ。しかも未成年のくせに」
「ごめんなさい」

 そうだった。
 夕べは失恋のショックを忘れようと、二人で飲み明かしたんだ。

「椎名さんって方が、送って来て下さったのよ」
「えっ? 椎名さんが?」
 
 夕べ彼は、意識が朦朧としているわたし達を見かけて家まで送ってくれたらしい。
 わたしの家は、この前送ってくれたので覚えていたんだろう。
 だけど、めぐみの家がわからない。
 母も知らなかったので、そのままうちに泊めたそうだ。

「椎名さん、あなたとめぐみちゃんをお姫様抱っこで部屋まで運んでくれたんだから」
「えっ!」

 嘘でしょ!
 わーどうしよう。
 本当に何も覚えていないよ。

「彼でしょ? こないだ食事に連れて行ってくれた人って」
「うん……」
「優しそうな人じゃない」
「……彼、彼女がいたの」
「えっ?」
「それで、彼のファンであるわたし達、一緒に飲んで忘れようって」
「そう。めぐみちゃんも彼の事が好きなのね」
「彼のファンは他にも大勢いるの。だけど、特定の人はいないと思ってた」
「そう。でも、お母さんには誠実な人に見えたけど」

 そうでしょ。
 わたしもそう思ってた。
 だけど違った。
 もう彼の事は諦めるしかない。

 しばらくして、わたしと同じように頭を抑えながら部屋から出て来ためぐみは、母が作ったリゾットを食べて帰って行った。
 今日が土曜日で良かった。
 これじゃ、とても働けないよ。

 頭痛薬が効いて、夕方にはすっかり気分も良くなった。
 そこへ、誰かからの電話。
 携帯の画面には、見知らぬ番号が表示されていた。
 誰だろう?
 怪訝に思いながらも出てみる。

「もしもし?」
『清美ちゃん?』
「えっ?」

 この声ってもしかして……

『俺、椎名。夕べ酔ってたから、心配で掛けてみた』
「どうして私の番号……」

 電話が終わって母を見ると、

「だって、心配だから電話させて下さいっていうからつい」

 と、わたしの許可無く番号を教えた事を自白した。
 まあ仕方ないよね。
 飲んでた理由を知らなかったんだから。
 彼は、わたしとめぐみの無事を確認すると、すぐに電話を切った。
 やっぱり優しい。
 だけど、誰にでも優しいから彼女が嫉妬するんだよ。
 もっと彼女の気持ちも考えてあげて。


 ピンポーン

 リビングでのんびりしていると、玄関のチャイムが鳴った。

「ちょっと清美、出てくれない?」
「わかった」

 キッチンで食器を洗っていた母の代わりに、わたしは玄関の扉を開けた。

「やあ」
「やあって……」

 そこに立っていたのは、椎名さんだった。

「清美、どなた?」

 母がエプロンで手を拭きながらやって来る。

「あら、椎名さん。夕べはご迷惑をお掛けしてすみませんでした」
「いえ。あのまま二人を放ってはおけませんでしたから」
「助かりました。もう、この子達ったら、未成年のくせにお恥ずかしい」
「今度飲みに行く時は、僕が同行します。そして、わからなくなるほど飲ませませんよ」
「……あの、椎名さんちょっとお話ししたい事が。上がってもらえるかしら?」
「お母さん?」

 どういうつもり?
 彼を家に上げるなんて。
 母は、彼をリビングに通すとソファーに座らせた。
 そして、単刀直入に尋ねる。

「椎名さん、一体どういうおつもりですか?」
「えっ?」
「あなた、彼女がいるそうじゃないですか。そんな方が、どうして清美を食事に誘ったりするんですか?」
「彼女って、僕、彼女なんていませんけど」
「嘘をつかないで下さい。清美とは遊びなんでしょ? この子は人一倍傷つきやすいんです。遊びなら、もうこの子を誘わないで下さい」
「お母さん、もう一度言います。僕は誰とも付き合ったりしていません。だから、清美さんに告白しました。だけど、彼女は僕を受け入れてはくれなかった。それでもいいんです。友達のままでもかまいません。僕は清美さんが好きなんです」
「……その言葉、信じてもいいんですね?」
「はい」
「ですよねー」

 はぁ?
 ちょっとお母さん、椎名さんの事を信じちゃうの?

「最初からそう思っていたんです。あなたは誠実な人だって。この子を騙すような人じゃないって」
「お母さん」
「やだわ。お母さんだなんて。何だか、婿みたい」
「お母さん、何言ってるのよ!」

 ここで我に返った。
 この変わり身の速さって一体……

「清美、彼を信じてあげなさいよ。嘘なんてついていないわ」
「お母さん、清美さんと二人で話してもいいですか?」
「ええ、そうね。それじゃ私は買い物に出掛けて来るわね」

 ち、ちょっとお母さん、わたし達を二人にする気?
 わたしのすがるような目を無視して、母は出掛けて行った。

 ソファーに二人。
 何を話せばいいの?

「清美ちゃん、どういう事?」
「何がですか?」
「俺に彼女がいると思ったの?」

 わたしは、安田さんの事を話した。

「安田、あいつ一体何を考えているんだ……」

 大きなため息。
 考え込む彼。

「あいつは、これまでにも何度か他の女の子に意地悪をして来たんだ。そもそも誰にでも声を掛ける俺が原因なんだろうけど、あいつ、勝手に俺の彼女だと思っているらしい。それで、俺が親しくしてる子を見つけると、誰かれかまわず攻撃してる。ごめん、それで君にも嫌な思いをさせてしまって」
「……」
「清美ちゃん、やっぱり俺と付き合ってくれないか?」
「えっ?」
「あいつにもきちんと話す。お前は俺の彼女なんかじゃないって。俺が好きなのは清美ちゃんだって。そして、清美ちゃんに何かしたら、この俺が許さないって」
「ごめんなさい。気持ちは嬉しい。だけど、あなたとは付き合えない」
「どうして? どうして俺をそんなに拒絶する? 俺の事好きなんだろ? だから、夕べ俺を忘れようとやけ酒を飲んだんじゃないのか? この気持ち、もう止められないんだ」

 彼から抱きしめられた。
 胸がキュンとした。
 わたしも好き。
 大好き。
 だけど、無理なの。
 わたしにそんな資格は無い。
 自分の命を粗末にしそうになったわたしなんか、愛される資格は無いの。

「清美ちゃん、好きだ。俺と付き合ってくれ」

 彼の腕に力が入る。
 このままずっと抱かれていたい。
 
 もしあの時死んでいたら……
 彼と出会う事も無かったんだ。

「椎名さん、聞いて下さい」

 彼はゆっくりとわたしから離れた。
 そして、次の言葉をじっと待ってくれた。
 わたしは、家族以外の誰にも見せた事の無い腕の傷をさらけ出した。  
 これで嫌われたのなら仕方が無い。
 黙ってそれを受け入れよう。

「これって……」
「リストカット。わたし、高校生の時に死のうとしたの」
「えっ……」
「いじめに遭って、生きているのが辛かった。だから、逃げようとした。だから、あなたとは付き合えない」

 えっ?
 わたしは再び彼から抱きしめられた。
 椎名……さん?

「バカ。だから付き合えないって言っていたのか」
「えっ?」
「辛かったな。清美をこんなに辛い目に遭わせたのは一体誰なんだ? そいつをぼっこぼこに殴ってやりたいよ」

 あれっ……清美って、呼び捨てになってる。
 でも、何だか心地良い。
 身近な人から清美って言われているからかな。
 ちゃん付けに慣れていないせいかな。

「良かった。清美が死ななくて良かった。俺の前に現れてくれて良かった」
「椎名さん……」
「もう大丈夫。これからは俺がお前を守る。お前を傷つけようとする奴がいたら、俺が全力で守る。だから、俺と付き合ってくれないか?」

 彼の胸で、こくりと頷いた。
 と、急にわたしを離す彼。

「い、いま、頷いてくれた?」

 それを再確認しようと、彼が目を大きく開いてこっちを見ている。
 この至近距離で、大好きな人から見つめられて、心臓が破裂しそう。

「ねえ、頷いてくれたよね?」
「はい」

 今度は、はっきり声に出して返答した。
 その途端、周りの空気をみんな吸い込んじゃうんじゃないかと思うくらい大きく息を呑んだ彼が、「ありがとう!」と、叫ぶと、さっきよりももっともっと強く抱きしめてくれた。

 ふふっ。
 ここにお母さんがいたら、きっと飛び込んで来るよね?

「おいお前、娘に何をしている!」

 血相を変えて飛び込んで来たのは父親だった。

「お父さん?」
「お父さん? す、すみません!」

 勢い良くわたしから離れる彼。
 そして、その場に直立不動。
 突然の父親登場で焦ってる。
 ううん。
 それはお父さんの方もだ。

「清美、そ、そいつは誰なんだ?」
「お父さん落ち着いてよ」
「落ち着いていられるか。大事な娘と一緒に知らん男がいるんだぞ。か、母さんはどうした?」
「買い物に行ってる」
「買い物? お前達を置いてか? 何やってるんだあいつは」


 リビングのソファーで向かい合う、わたし達二人とお父さん。

「お父さん」
「お前にお父さんと呼ばれる筋合いは無い!」
「失礼しました。それでは、小田さん」
「それも何かしっくりこん。まあいい。お父さんでいい」

 何だか笑える。
 いつも冷静なお父さんが、舞い上がってしまっている。

「ではお父さん。わたくし、清美さんと同じ会社で総務の仕事をしております、椎名純平と申します」

 彼が頭を下げた。

「どうも。で、娘とはどういう関係なんだ?」
「清美さんの事が好きです。お付き合いさせて頂きたいと思っています」
「……清美はどうなんだ? その、彼の事をどう思ってる?」
「好きです。彼には、腕の傷も見せたわ。過去の事も話した」
「えっ?」

 父は驚いていた。
 過去の事は今まで誰にも話さなかった。
 それをさらけ出したわたしの気持ちが本物だという事がわかったはず。

「椎名……君。娘の傷を見ても、変わらずこの子を愛してくれると誓えるんだな?」
「はい。お父さんとお母さんが守って来られたように、これからは僕が清美さんを守っていきたいんです。どうか僕に清美さんを守らせて下さい」
「わかった。で、式はいつにする?」
「ちょっとお父さん! 結婚の挨拶じゃないんだよ。わたし達、これから付き合い始めるんだよ」
「清美、俺、付き合いの先には結婚も考えてる。こんなに早く展開するのは想定外だったけど、これからもずっと一緒にいたいと思ってる。だから、結婚を前提に俺と付き合って欲しい」
「椎名さん……」

 わたしはこくりと頷いた。
 もう何も心配しない。
 彼を信じる。
 これから先、何があろうと、彼を信じる。
 お父さんの登場で、一気に話が進んじゃったけど、ある意味親への挨拶が終わってしまったので後が楽かも。
 椎名さんのお父さんとお母さんが許してくれなかったらという不安はあるけど、今はその事は心配しないでおこう。
 だって、これから付き合い始めるんだもの。
 もしかしたら、お互いに違うなって思うかもしれない。
 結婚を前提にと言われても、別れが来るかもしれない。
 だから、先の事は考えず今を大切にしたい。

「あら、お父さん、帰っていらしてたんですか」
「お前、純平君を放って出掛けるなんて失礼じゃないか」

 びっくりした母親がわたし達を見た。

「お母さん、僕達付き合う事にしました。お父さんからのお許しも頂きました」
「あら。あなたが許可するなんてね。てっきり、お前にお父さんと言われる筋合いはない。出て行け! なんておっしゃるかと思ってましたわ」
「うん? うん……まあそう言ったような言わなかったような。でも、いい青年じゃないか。二人の気持ちも良くわかったし、反対する理由がないよ」
「そうね。二人が幸せならそれが一番。椎名さん、夕食一緒にどうかしら?」
「はい。ごちそうになります」
「よし、それじゃ純平君、一緒に酒でも飲もう」
「いえ、今日は車で来ておりますから」
「いいじゃないか。代行を頼みなさい」

 結局二人は酔いつぶれた。
 だからと言って……
 付き合い始めたばかりの男を、娘の部屋に寝かせる?
 まったく、何考えているんだろ、お父さん。

「ねえお母さん、本当にわたしの部屋に彼を寝かせちゃってもいいの?」
「いいんじゃない? これだけ酔いつぶれていたら、朝まで起きる事もないでしょう」
「朝になって、お父さん怒ったりしないよね?」
「有り得る」
「えー」
「だけどその時はちゃんとお母さんが言ってあげるから心配しないで。あなたも嬉しいでしょ。好きな人と一緒の部屋に寝られるんだから」
「夕べはめぐみ。そして今晩は椎名さん。わたしの部屋が急に賑やかになっちゃった」
「良かったわ。あなたにめぐみちゃんという親友がいて、椎名さんという恋人も出来て」
「お母さん、ありがとう。あの時わたしを見つけて病院に運んでくれて」
「清美……」
「本当に良かった。わたし、生きてて良かった」

 母と二人で抱き合った。