今日から、総務に派遣社員が来る。
 ちょっと憂鬱なのは、その人の研修を担当するのが純平さんだって事。
 綺麗な人だったらどうしよう。
 研修は三日ほどで終わるらしいけど、その間は密に接するわけでしょ。
 彼が目移りしたらどうしよう。
 そんな事を心配してしまうのは、やっぱり自分に自信が無いから。
 美人でも無いし、スタイルが良いわけでも無い。
 倉庫の仕事は出来ても、総務や経理の仕事は出来ない。
 自慢出来る事は何にも無いんだよね。

「清美、おはよう」
「おはよう、めぐみ」
「今日も彼と一緒にご出勤ですか?」
「ええまあ」
「何? その歯切れの悪い返事は。何か心配事?」
「うん……今日から来る派遣社員ってどんな人かなって」
「その人と椎名さんがどうにかなるんじゃないかって心配?」
「そう」
「本当にあなたって心配性ね。大丈夫。どーんと構えてなさいよ。椎名さんには清美しか見えてないってば」
「本当に?」
「本当よ。わたしが保証する」
「わかった」

 めぐみに太鼓判をもらい、とりあえず安心した。

「ねえめぐみ、あなた情報通でしょ? 派遣社員の情報ないの?」
「あいにくまだよ。でも待ってて、ランチの時までには収集しておくわ」
「宜しく」

 安心したけど気になる。
 まさか彼にどんな人? って聞けないしね。
 わたしが心配してるってすぐにバレるから。

「さっ、朝礼よ。行きましょう」
「わかった」

 倉庫のメンバーが集まっての朝礼。
 毎朝これを済ませてから仕事に入る。
 五分程度の短いものだけど、前日の出荷ミスの報告や、本日の予定などが発表される。
 自分に関わるミスだったら、一日テンションが下がるのでドキドキする瞬間だ。
 
 という事で、ミスの報告は無く、気持ち良く仕事に入る事が出来た。
 今日も一日頑張ろう。

「友田チーフ、これ総務に届けて来ます」
「わかった」

 総務からの注文の品を抱え、めぐみが出て行った。

 十分後。
 めぐみが戻って来る。
 
「めぐみ、遅かったじゃない。何してたのよ」
「もしかして、友田チーフ怒ってた?」
「ううん。池田主任と奥で話してる。あなたが戻って来ない事にも気づいてないわ」
「セーフ」
「で?」
「清美が知りたいのは派遣社員の事でしょ?」
「それしかないでしょ」
「だよね。あいにくいなかった」
「えっ?」
「椎名さんと会議室にこもって指導受けてるみたい」
「そうなの?」
「でも他の人に聞いて来たわよ。えっとね」

 そう言うと、めぐみは作業ズボンのポケットからメモを取り出した。

「まず、名前は春川奈々美さん。年はわたし達と同じ十九歳」

 さっと血の気が引く。
 春川奈々美。
 こんな偶然ってあるの?
 同姓同名の人がいる?

「何でも、シングルマザーらしいよ」
「えっ?」

 子どもがいるの?
 あの奈々美とは結びつかない。
 やっぱり別人だよね。
 わたしが高校を辞めてから、彼女がどうなったかは知らないけど、あの人の事だもん。
 大学に進学してるに決まってる。
 中学の頃から、大学まで行って、高学歴のイケメン捕まえて優雅に暮らすのが夢って言ってたもん。
 そういうとこ、有言実行する子だったから。

「清美? 大丈夫? 何だか顔色が悪いみたいだけど」
「大丈夫。ちょっとトイレ行って来てもいいかな?」
「いいよ。行っておいで」

 廊下に出た。
 廊下を挟んで経理部の前が会議室。
 そちら側には窓が無いので、中の様子は見えない。
 わざとゆっくり歩いて、中から彼の声が聞こえないかと耳を立てる。
 だけど、中からは声も音も聞こえなかった。
 仕方なくそのままトイレに向かった。
 つい想像してしまう。
 会議室という密室に純平さんと女の子が二人きり。
 何も無いとは思っていても、二人っきりという事だけでソワソワしてしまう。

 と、トイレに足を踏み入れた時だった。
 水を流す音がして、個室のドアが開く。
 安田さんが出て来たらどうしようと緊張した。

「えっ……」
「あっ……」

 同時に声が出た。

「清美?」
「……奈々美?」

 そこにいたのは、忘れようと思っても忘れられない、春川奈々美、本人だった。

「清美、どうしてここに?」
「どうしてって、ここで働いているのよ」

 どうしよう。
 倉庫に引き返そうか。
 だけど、わたしが逃げる必要は無い。
 堂々としていていいんだよね?

「知らなかった」

 その言葉の裏に、わたしがいるんだったら、この会社には来なかったという気持ちが受け取れた。
 わたしだってそう。
 ここであんたなんかに会いたくなかったよ。
 待って。
 て事は、純平さんからマンツーマンで指導を受けているのは、奈々美なの?
 そう思うと、急に怒りが湧いてきた。 

「清美。高校ではごめんなさい」
「……」

 奈々美が素直に謝ってる?
 それは、気持ちのこもった謝罪に感じた。

「わたしがバカだったわ。彩香なんかと友達になるんじゃなかった。あなたの腕にも、傷を負わせてしまった」

 今頃気づいても遅いわ。
 もう手遅れなのよ。

「奈々美、わたし達、ここで初めて会った事にして欲しいの」
「えっ?」
「あんたにいじめられたって、他の人に知られたくないのよ。あんたも嫌でしょ? 自分のせいでわたしが自殺しようとしたって知られたら」
「そうね。わかった。知らない振りをしましょう。でもね、聞いて欲しい事があるの」
「何も聞きたく無いわ」
「……わかった」

 彼女が出て行くのを見届け、わたしは空いてる個室に入った。
 と、隣で誰かが水を流す音がした。
 人が居た?
 今の話、聞かれた?
 うかつだった。
 奈々美が出て来た事に動揺し、他にも人がいた事に気づいて居なかった。
 誰なの?
 どうしよう。
 わたしが自殺しようとした事がバレた。

 静かにトイレから出る。
 廊下にはもう誰もいない。
 このトイレを利用するのは社内の女性だけだ。
 他の階からわざわざここを利用しに来る人はいないはず。
 どうしよう。
 どうしたらいいの?

「もしもしめぐみ? お願い、今すぐトイレに来て」

 仕事中の携帯への電話は禁止されていたけど、このまま何事も無かったかのように働けない。
 わたしの電話に出ためぐみは、猛ダッシュでトイレにやって来た。

「清美、どうしたの?」
「めぐみ、どうしよう、わたしが自殺しようとした事がみんなにバレるよ」
「どういう事? とにかく、非常口に行こう」

 彼女に手を引かれ、非常口の外に出た。

「清美落ち着いて。一体何があったの?」

 焦っていて、要点を得ない話でも、めぐみはしっかりと受け止めてくれた。
 少しでもわたしが落ち着くようにと、手を握り、背中に空いた方の手を添えてくれた。
 どうしよう。
 みんなから腫れ物に触るような扱いを受けたら。
 もう会社にはいられないよ。
 純平さんとも会社で会えなくなるよ。

 わたしの話を聞き終わっためぐみが静かに口を開いた。

「神様って酷いね。どうして今更試練を与えるんだろうね。清美はもう十分試練を受けたっていうのに」
「わたし、どうしたらいい?」
「とにかく、トイレにいたのが誰だかわかんないけど、その人が話すとは限らないわ。少し様子を見よう。そして春川って女には、初めて会った事にしようって言ったのよね? だったらわたしもそのつもりで接するから。殴れないのはちょっと残念だけど」
「めぐみ……」
「でも、出来る事なら殴りたいんだからね」
「わかってる」
「とにかく戻ろう。友田チーフには、気持ちが悪くなったからわたしが呼ばれたって事にしよう」
「うん。ごめんね」
「大丈夫? 働ける?」
「頑張る」
「よし。それじゃ、行こう」

 わたし達は倉庫に戻った。

 いつものようには仕事に集中出来なかったけど、それでもミス無く午前の仕事を終えた。
 あれから廊下に出ていないので、経理部や、総務部の様子がわからない。
 出た途端にみんなの視線が集まったらどうしよう。
 そう考えると怖かった。

「清美、お昼食べに行こうか」
「うん……」
「大丈夫。きっと大丈夫よ」

 食欲は無かったけど、めぐみと二人で食堂に行く。
 きっともうすぐ純平さんも来るはずだ。
 そしたら話そう。
 彼女が、元親友の奈々美だって事を。

「お疲れ」
「……」

 そこにやって来たのは純平さんだけじゃなかった。
 奈々美もいた。

「二人に紹介するよ。彼女が今日から働く事になった派遣社員の春川奈々美さん。倉庫とは直接は関わりが無いかもしれないけど、年も同じみたいだし、仲良くしてやって」
「初めまして。春川奈々美です。宜しくお願いします」

 彼女は、わたしとの約束を守って、動揺する事も無く、初めて会った人に接するように振舞ってくれた。
 だから、わたしも知らない振りをする。

「小田清美です。そしてこっちは同僚の大野めぐみさんです」
「初めまして。大野です」

 テーブルの下で握り合っていためぐみの手に力が入る。
 怒りがこみ上げて来ているんだ。
 それでもわたしに合わせて我慢してくれている。

「奈々美ちゃん、この二人とっても良い子だから、俺に言いにくい事があったら、二人を頼っていいよ」
「ついでに申し上げておきますけど、椎名さんと清美は付き合ってますから。絶対二人の関係を壊さないで下さいね。もしそんな事したら、わたしが許しませんから」
「ちょっとめぐみちゃん、そんな怖い言い方止めてよ」
「椎名さんに、悪い虫が付いたら大変ですから」
「おいおい、めぐみちゃんどうしちゃったの?」

 純平さんが困ったようにわたしを見つめて来る。
 
「帰りに話すよ」
「えっ?」
「今は何も聞かないで」
「わかった」

 成り行きで仕方なく奈々美と同じテーブルで食事するハメになった。
 折角のお弁当がまったく美味しく感じられない。

「奈々美ちゃん、子どもがいるんだって?」
「はい」
「男? それとも女の子?」
「女の子です」
「そっか、いいな~。だけど、シングルマザーだと子育ても大変だよね?」
「そうですね。小さいから、保育園に預けていても月に何回か熱が出たって呼び出されるんです。だから、正社員として働くのは難しくて」
「そっかぁ」
「でも、あの子がいるからきつくても頑張れます。あの子の笑顔を見られるのが生き甲斐なんです」

 奈々美の口からそんな事を聞くとは思ってもいなかった。
 ちゃんとお母さんしてるんだ。

「娘さんのパパは?」
「子どもを身ごもってすぐに籍を入れたんですけど、生まれてからちっとも面倒を見てくれなくて、挙句の果てに夫が浮気してダメになりました」
「ごめん、立ち入った事を聞いてしまって。若いのに大変だったんだね」
「自業自得なんですよ。学生の頃に友達を傷つけてしまった罰です」
「あまり自分を責めないで。ちゃんと子どもを育てて、頑張ってるじゃないか」
「ありがとうございます」
「親御さんに助けて貰えないの?」
「高校三年生の時に身ごもって、学校も中退した娘なんか勘当ですよ。電話にも出てくれなくて」
「それじゃ、親御さん、孫の顔も見てないの?」
「はい」
「それはちょっと寂しいね。連絡取れないなら、黙って押しかけてみればいいのに。孫の顔を見たら、きっと受け入れてくれるさ。って、無責任な発言しない方がいいかな」
「いえ、ありがとうございます」
「清美、めぐみちゃん、そういう事だから、彼女の力になってあげてね」

 めぐみと目を合わせ、はいと言ったもののきっと顔が引きつっていたと思う。
 確かに可哀想な境遇だとは思うけど、同情は出来ないよ。

 昼休みが終わり、わたしとめぐみは倉庫に戻った。
 めぐみは不機嫌が顔に張り付いていた。
 わたしも同じだけど、トイレでの事が気になって、怒りは不安へと変化していた。
 まだ今のところ変わった様子は無い。
 そんなにすぐには噂は広まらないかもしれないけど、例の刺青騒動があった時の事を思い返すと、いてもたってもいられない。

 定時になり、わたしとめぐみは更衣室にいた。
 ここで奈々美と二人きりにはなりたくないので、純平さんを待つ間、めぐみに一緒にいて欲しいと頼んだ。
 そのかわり、純平さんが終わったら、めぐみを家まで送ろうと思う。
 そして、その後、奈々美の事を話そう。

 トントン

「どうぞ」

 入って来たのは安田さんだった。

「お疲れ様です」
「お疲れ様」

 最近彼女はわたしを無視する事も無くなり、関係はいたって良好だ。
 と言っても、先輩だし、違う部署だから、そうそう会話は弾まない。

「あなた達、総務の派遣社員とは話したの?」
「はい。椎名さんがお昼に紹介してくれました」
「……そっ」

 それだけ言うと、着替え始める安田さん。
 ブラウスを脱ぐと、谷間のある胸元があらわになった。
 思わず目を逸らす。
 立派なボディが羨ましい。

「それじゃお先に」

 着替え終わった安田さんは、更衣室から出て行った。

「安田さん、近頃優しくなったんじゃない?」
「そうね」
「良かったよね~意地悪されなくなって」
「うん、良かった」

 安田さんは、瀬高さんとも仲直りしたらしく、先日トイレで瀬高さんに会った時、噂の事を謝罪して貰った。
 元々瀬高さんは優しい人だ。
 あの時はちょっと意固地になっただけで、本当はすぐにでも謝りたかったらしい。
 
 彼からLINEが来た。

「あっ、終わったって。行こう。家まで送るよ」
「いいわよ。早く二人になりたいでしょ?」
「付き合ってくれたお礼。ねっ、行こう」
「そう? それじゃお言葉に甘えて」

 わたし達は、地下の駐車場に向かった。

「お疲れ」
「お疲れ様です」
「純平さん、めぐみが一緒に待っててくれたの。家まで送って貰えるよね?」
「もちろん。何なら、これから三人で食事しない?」
「いいんですか?」
「よし、行こう」

 こないだ行ったラーメン屋。
 めぐみはそこでも大盛りラーメンとチャーハンを完食。
 純平さんも目を丸くしていた。

 店を出て、めぐみを家まで送り届ける。
 そして、わたしの家に向かう途中の車内で、奈々美の事を切り出した。

「純平さん」
「うん?」
「春川奈々美。あの子なのよ、高校生の時にわたしを苛めたのは」
「えっ!」

 踏み込まれたブレーキで、思わず体が前のめりになる。
 彼はそのまま路肩に停車した。

「それ、本当なのか?」
「うん……」
「待って。だったら昼休みに初めましてって言ってたのって……」
「わたしが頼んだの。知り合いだってバレたく無かったから」
「マジか……」

 ハンドルに体を預け、思い悩む純平さん。

「何でもっと早く教えてくれなかったんだ」
「言ってどうなる? 彼女の担当を外れた?」
「いや、それは上司の意向だから」
「だよね。だったら知らない方が良かったでしょ?」
「それはそうだけど、お前の気持ちはどうなんだよ。嫌だっただろ? 俺が彼女と話しているのを見ているだけでも」
「大丈夫。会社では知らない者同士ってスタイルを貫くから」
「……」
「ごめん。明日からも同じように接してあげて。わたしは大丈夫だから」
「聞いちゃったから無理だよ」
「まさか、彼女を殴ったりしないよね?」
「それはさすがに出来ないけど、平気ではいれないよ」
「ごめん。ずっと黙ってた方が良かったかな?」
「いや、それはダメだ」
「だったらお願い。今日と同じように接してあげて」
「……わかった」

 その後も、純平さんはため息を漏らしながら運転を続けた。

「ありがとう」
「それじゃまた明日な」
「うん」