とまれ、祖母に対する母の謝罪を優先させるべきだと感じた私は、さらに攻勢を強めようとする祖母の語調に負けじと声を張り上げた。
「さあ、謝るよ!」
いつもなら祖母に同情の念を示しつつその不満を聞き続けるか、時折母の気持ちを代弁したりしながら突然の電話による中断ないし祖母の怒りが静まるのを待つ私であったが、今回はその余裕がなかったしちょっと試してみたいことがあった。
私の脳裏には以前ラジオ対談番組で拝聴した山折哲雄氏のアドバイスが浮かんでいた。氏は日本を代表する宗教学者、評論家であり、メディアにおける御活躍も多い。独自の東洋的宗教観に基づく世界観、日本人論等にはいつも勉強させられる。ある時車で帰宅した私は、偶然車内ラジオで山折先生の対談が始まったのを知り、家に入る時間ももどかしく駐車場に車を停めたまま15分程度聞き続けた。
内容は日本人の生死観に関するもので、昔の「人生50年」時代から長寿社会へと変貌を遂げた現在、死への準備という視点から高齢者の余生の過ごし方と心構えについて述べておられた。
私の印象に残った箇所は、子供のしつけ、叱り方についての御説である。先生は子供に説教して聞かせる時は、ご先祖様の前で、即ち仏前で行うべきだとの旨おっしゃった。私はそのアドバイスに深く共鳴し胸に刻み込んだのである。
それを母に応用しようと思ったわけである。ただ謝らせるより反省が深くなるかもしれない。何か母の心に期すものがあるかもしれない。そんな期待を抱きながら。
私は2人を促し襖を隔てた隣室の仏壇に前に座らせた。そして母に線香を上げさせ反省の弁をさせた。
「・・・。おばあちゃんに迷惑をかけないようにします。」
母のあまりの流暢な反省文にあっけにとられた。こうもよどみなく一息で述べきってしまえるものだろうか。そもそも母に衷心からの反省なぞ望むのは無理に近いことであるが、それにしても反省が感じられん。日常の母は寡黙なほうだが、たまの口論となると我々の予想以上に弁が立つことがある。よくよく分析してみると根拠のないこじつけや屁理屈を繋ぎ合わせたものが多いのだが、あまりにも自信たっぷり、確信的に発言するものだから、気の弱い私なぞはコロッと騙されそうになる。
「さあ、謝るよ!」
いつもなら祖母に同情の念を示しつつその不満を聞き続けるか、時折母の気持ちを代弁したりしながら突然の電話による中断ないし祖母の怒りが静まるのを待つ私であったが、今回はその余裕がなかったしちょっと試してみたいことがあった。
私の脳裏には以前ラジオ対談番組で拝聴した山折哲雄氏のアドバイスが浮かんでいた。氏は日本を代表する宗教学者、評論家であり、メディアにおける御活躍も多い。独自の東洋的宗教観に基づく世界観、日本人論等にはいつも勉強させられる。ある時車で帰宅した私は、偶然車内ラジオで山折先生の対談が始まったのを知り、家に入る時間ももどかしく駐車場に車を停めたまま15分程度聞き続けた。
内容は日本人の生死観に関するもので、昔の「人生50年」時代から長寿社会へと変貌を遂げた現在、死への準備という視点から高齢者の余生の過ごし方と心構えについて述べておられた。
私の印象に残った箇所は、子供のしつけ、叱り方についての御説である。先生は子供に説教して聞かせる時は、ご先祖様の前で、即ち仏前で行うべきだとの旨おっしゃった。私はそのアドバイスに深く共鳴し胸に刻み込んだのである。
それを母に応用しようと思ったわけである。ただ謝らせるより反省が深くなるかもしれない。何か母の心に期すものがあるかもしれない。そんな期待を抱きながら。
私は2人を促し襖を隔てた隣室の仏壇に前に座らせた。そして母に線香を上げさせ反省の弁をさせた。
「・・・。おばあちゃんに迷惑をかけないようにします。」
母のあまりの流暢な反省文にあっけにとられた。こうもよどみなく一息で述べきってしまえるものだろうか。そもそも母に衷心からの反省なぞ望むのは無理に近いことであるが、それにしても反省が感じられん。日常の母は寡黙なほうだが、たまの口論となると我々の予想以上に弁が立つことがある。よくよく分析してみると根拠のないこじつけや屁理屈を繋ぎ合わせたものが多いのだが、あまりにも自信たっぷり、確信的に発言するものだから、気の弱い私なぞはコロッと騙されそうになる。
