木枯らしの冷たい10月のことだった。いつものように3人で夕食を済まし、くつろいでいると祖母がつぶやいた。
 「今日変な電話かかってきたんだいな。」
 「どんな。」私が尋ねる。
 「徳島の小学校の校長先生らしいんだけど、お母さんの手紙を文集さ載せでもいいがっで。」
 「こないだ貰ったイモのお礼の葉書でねが。」答える母。
 「ああ、あのイモのが。」納得する私。
 職場で私が丸々太ったさつまいもを貰ってきたのが二ヶ月ほど前であったか。その立派な外見にもまして我々の目をほころばせたのは、プラスチックの袋に貼付された一枚の小さなシールであった。手作り感溢れるそれには松茂小学校六年生が作ったピカイモという表記がいかにも小学生らしい筆致でなされてあった。とくに感銘を受けた母は、早速、過日太宰治の生家である斜陽館にて入手した絵葉書にお礼を認めて投函したのであった。
 先方から電話があるまで我々はそのことをすっかり忘れていた。ここまでは何も問題はない。母の手紙が選ばれたのだから、喜ばしいことである。だが、次の祖母の一言に母と私とは目を丸くした。
 「それで、直子さん(母の名である)がわざわざ徳島まで来てくれたって言うんだいの・・・。」私は耳を疑った。
 「へ?お母さん徳島まで行ったのが??」八十キロのその体格にふさわしい大声をあげて放つ母の返事は、もっともなものであった。
 「なあんで私が徳島まで行かねばまいねのさ。そんなとごまで行ぐわげねっきゃ。」
 母が青森からはるばる徳島くんだりまで一人旅をするなどあまりにも非現実的すぎる話だ。時間も、むろん金もないのにそんなことは到底考えられない。だが、祖母の話は続く。
 「でも向こうは本人が来たって言い張るんだいの。」先方が母を誰かと見誤っているとしか考えられないのであるが、祖母は今ひとつ納得できない様子であった。文集のレイアウトが完成したらコピーを送るとの約束だったので我々はそれまで大人しく待つことにした。
 それから約一ヶ月後、忘れかけた頃にそれはやってきた。一つ断っておくが、母の送った葉書を見るのはその時が初めてだった。実は母は時折手紙や絵葉書を認めて親戚などに送付することがあるのだが、前もって私に内容を見せてから投函することがある。