お陰で気の遠くなるような時間がかかったり読む気すら失せたりするわけだが、少しずつでも意味が通っていくプロセスが私は好きでじょじょに謎が解明されていく喜びと叡智を授けられたときに背筋を走る電撃は無上の幸せである。
 とまれこうまれ、知的好奇心を満たす至福の時へと沈潜しようとしていた私だったのだが・・・
 空腹とともにふと、ある考えが脳裏に浮かんだ。
-俺の家族を題材にした本なぞ書けまいか-
 時間的にナチュラルハイになっていた私に訪れたみしらせ、天啓であった。その時の私にとってこれは後に宗教的体験、私の人生を変えた瞬間と回顧さるべき性格のものであると錯覚させるほど強い思念であった。冷静に考えれば空腹と深夜のナチュラルハイと養老先生からのインスピレーションが織り成した幻想であることは明らかである。肥大化した自意識にほだされていたのだ。
 私は残念ながら読書家ではない。私の考える読書は勉強であり、心・技・体ともに100%でなければ容易にはできぬものだ。
 雑誌記事や新聞のコラムなど短い文章は好んで読むが、小説などの読書量は少ないのが現状である。
 そんな自分が文筆家というものにあくがれるのは、できるだけ多く本を読む時間を得ることができかつそれから得られた情報なり知識なりをストレートに活かすことのできる環境を私が求め理想としているからである。また、私が今まで受けてきたような影響を他人にも与えてみたいといった願望もある。ろくに本も読んでないやつが本を書こうなどと見当違いもはなはだしいとお叱りを受けるだろう。だから以前にも漠然とそのような思いにかられたことがあったが、俺に書けるわけがないと一笑に付していた。
 今回は違った。具体的なアイデアが湯水の如く湧き出るのだ。何か自分にとって特別で緊張感のある体験をした後に頭の中が反省や妄想の洪水に見舞われることがある。(ああすればよかった、こうすればよかった。ああ言えばよかった、こう言えばよかった。ああなってほしいな。こうなっていくのかな。)といったように。同様にエッセイのアイデアが具体的に湧いてきたのだ。対象、表現文体、コンセプト、テーマなどなど。衝動に突き動かされながら私はメモを取り始めた。まず今の所感を簡単にまとめ執筆する上での原点を記した。この特別の瞬間をなるだけ素直に残しておきたいと思っていたからだ。