と努めて冷静に否定する。続けて私も、
「そうだよ。」と母に同調する。だが祖母は意に介さない。
「夏だばおばあちゃんが出で行げばいいんだけど冬だはんでいぐ場所ねぇはんで・・・。」
と勝手に話を進めている。俺の取った無視に対する報復か。祖母の態度に反感を覚えたた私は心中(どごさでも行げばいいっきゃ。娘(母の姉)のとごだの、友達のとごだの、行ぐどごあるべさ。)と祖母の不在を望んでいた。それから、(ついに来るべき時が来たのかもしれない。)と冷静に考えるようになっていった。
 「二人でやればいいっきゃ。」この台詞は祖母の伝家の宝刀と言って良いだろう。過去に数度用いられたことがある。祖母の我々に対する失望が最大になったとき発せられる最後通牒である。これが発令されると母と私とは沈黙せざるを得ない。母と私との二人だけで暮らすということは、祖母の厚生年金と遺族年金抜きで生活することを意味する。ありていに言えば素寒貧である。二人だけでは到底やっていけないとは、家計を預かる祖母の口癖だ。保険外交員として大都市の大手生保会社で長らくトップセールスを誇った祖母の経済手腕には、せいぜい地方の国立大学でかろうじて経済学を修めた私には敵わない。母の諸々の治療コストは長年働き続けてきた祖母の蓄財なしでは賄えないし、不肖の私を大学卒業までサポートしてくれた祖母の財力と有形無形の恩恵には、感謝してもしきれない。
 私の強く印象に残っているのは、小学校中学年時だったろうか。あまりの母の傍若無人の振る舞いに祖母も疲れ果て、目に涙を溜めて、
 「おばあちゃんもうこの家出て行ぐから。後はお母さんとてっちゃん(私のあだ名である)で暮らしなさい。」
と仏前で静かに語ったのを覚えている。祖母なしの生活なぞとても考えられなかった私は、
 「おばあちゃんと一緒に暮らす。」
と涙声で訴えていたのを思い出す。
 一瞬にして家庭崩壊の引き金をひきかねないその言葉を聞く度に戦々恐々としていた母と私であった。
 今回は空腹という特殊で私にとっては大変重要な事情のため、突発的に冷静さと将来展望を大きく欠いたことも、祖母への反感の一因となったが、同時に浮かんできた諦念はむしろ長年の蓄積に基づいた核心的な意思決定であったとも言える。
 この先母との二人暮らしになる可能性が高いのは論をまたない。