寿永二年(1183年)の春。桜の木が薄桃色に染まり始める頃。

 人々を苦しめた冬の寒さと飢饉はひとまずの落ち着きを見せ、人々は待ちわびた春の到来を喜んでいた。

 屋敷の中庭には立派な桜が咲き誇っており、傍らで共に庭を見ていた乳母の呉葉は「まあ」と感激したように声を上げる。

 小宰相は初めて通盛と出会った花見会の思い出を辿る。何もかもが遠い昔のようで、目を細めた。

(上西門院様と他の女房達に囲まれて。あの頃は誰かの安否など気にしたこともなかった……)

 それが今ではどうか。

 先日、東の反乱を鎮圧するために結成された追討軍の大将軍の一人として、夫通盛は数日前に何万もの兵を率い、北陸に向けて出立した。

 追討軍の結成は前から検討されていたことだが、共に桜を楽しむ暇も与えられなかったことを二人で嘆いた。冬が明けて飢饉が収束すれば、何処かに花見したい、何処かに行きたいと話をしていただけに、落ち込みも大きかったのである。

 通盛は優しかった。出立の日の前夜、眠れないでいた小宰相をずっと抱きしめて、「勝利を手に必ず貴女のもとに戻る」と約束してくれた。

 その言葉を信じて縋るしかなかったが、一番求めている言葉だった。

 通盛がいない屋敷の中はひどく静かで、小宰相は寂しさに唇を噛む。

 

 それでも、昔のように孤独ではなかった。

 小宰相は望んで此処にいる。
 此処は通盛の帰る場所だからだ。