しかし、すぐに後白河法皇にこれを訴える者が出た。関白・藤原基房(ふじわらのもとふさ)である。

 元々、盛子は摂関家の者ではない。

 にも関わらず、”夫の遺産”を理由に摂関家の荘園を奪取するなどあり得ない、というのが摂関家の言い分だ。

 彼の訴えに応えた後白河法皇は、盛子の遺領を押収し、自分の管理下に置いた。

 結局、遺領は平家の物にはならなかったのだ。

 その上、盛子の死に対して世間から密やかではあったが厳しい批判が集まった。

「武士である平家の身の上で、畏れ多くも摂関家の家領荘園を独占したことにより、神罰が下ったのだ」と。

 宋との貿易や全国に持つ知行国などによって、今や天皇家を凌ぐほどの財力を持つ平家にとっては、遺領を奪われたことによる損益は大したことではない。

 ただ、他のどの一族一門よりも親愛の情が強い平家一門は、身内が蔑ろにされることに強い怒りを抱いている。