黒田さんは、僕の激しい落胆を和らげようと、言葉遣いも態度もとても
優しかった。恋人というより優しい姉のように振る舞っていた。「ねえ、
ここは真実の泉よ。だから本当のことを言うわ。実はもっと大切な告白が
あるの。私はあなたのこと好きよ。とっても好き!素直だし、すごく優し
いから‥。私だってあなたと離れたくない‥。ずっとこうしていたい‥。
ロンドンなんか行きたくない! ロンドンなんか‥。ねえ、あなたも
何か言って‥。」僕は黒田さんの言葉に涙が出そうになった。
黒田さんも泣きそうな顔をしていたので、僕は思わず彼女をそっと抱いた。
彼女は眼を閉じていたが、涙が頬に落ちていた。僕は躊躇うことなく
彼女に軽くキスをした。生まれて初めてのキスだった。
もう彼女を放したくないという気持ちが溢れ、彼女を強く抱き締めていた。
いつまでもこのままで居たいと思った。ずっとこのままで…。
…夕陽を浴びて、はらはらと舞い落ちるもみじが、碧く透き通った泉の上に
幾重にも浮かんだ。泉の水面(みなも)には、きらきらと陽炎(かげろう)
が反射して、その光がいつしか集まって、柔らかな二つの虹になり、泉の
上の方に、渡り始めていた。こんな幻想的な風景は見たことがない。
明らかに神様が二人の姿を祝福しているように思えた。
しかし、皮肉にも僕の心は悲しみのどん底にあった。だから、今の光景は
僕の心とは真逆の光景だった。僕はだんだんと意識が遠のいてゆく気がした。
…この日を最後に彼女からは連絡がなくなり、予備校にも来なくなった。
ラインをしても既読されず、僕の人生は完全に詰んだ。もう終わりだ。
僕は夢遊病者のように家に閉じこもっていた。何をする気もなかった。
全ての意欲をなくしていた。もうどうでも良いと思っていた。
このまま死んでも構わないと思った。こんな辛い日々が何日も何日も続いた。
そんなある日、確かクリスマスの日だった。可愛い動画入りのラインが届いた。
なんと黒田さんからだった。
” お元気ですか? 秩父にお出かけしてから、ずっとご連絡できず、
ごめんなさい。あなたを悲しませてしまったこと、
あなたを苦しませてしまったことを後悔しています。
でも、本当のことを話さなければ、お互いが不幸になるでしょうから…。
だから、お願い、分かってください。
私はあなたとの秩父旅行を心の糧として
ロンドンでの新しい生活を始めるつもりです。
あなたも私のことを心の中にしまっておいてください。
そしたらすごく幸せです。
楽しかった秩父旅行は、私の心のアルバムに収めます。
優しいあなたが大好きだから…。”
-- 完 --
