「桜、桜はやっぱり日本にいたい?」
カフェに着いた尚は、メニューの一番上にあるホットコーヒーを頼む。
桜も同じものを注文した。
「まだ、分からない。ごめん」
桜は俯きがちに言った。
「ううん、僕がいきなり着いてきてほしいなんて言うから困らせたんだ。僕は、桜の意見を尊重するよ。もし日本にいてピアノの先生を続けたいなら、僕はそれを応援する。それで別に僕と桜が一生会えなくなるなんてことはきっとないはずだ。それにもし、あの人のことを桜が好きになったのなら、僕は何も言わないよ。……まあ、当たり前のことだよね。彼も音楽学を勉強しているなら、桜にはちょうどいい」
話をしている尚の目は、潤っている。
コーヒーカップを持つ彼の手は震えている。
そんな彼を見て、桜は初めて彼のことを抱きしめたいと思った。
それでも、桜はどうしても一歩を踏み出す勇気がない。
桜にとってピアノは宝物で、ピアノを教えることもまた桜にとっての生きがいで、尚についていくことは、その生きがいを捨ててしまうこと。
ピアノを弾くことは出来るかもしれないけれど、それだけになってしまう。
それならいっそ、日本にいる彼を選んだ方が、と考えてしまう。
桜ももう若くはない。



