「ありがとうございます」
窓の外はもうすっかりと暗くなっており、時刻は9時を過ぎていた。
2人は、食べることも忘れてピアノに向き合っていた。
「世界一です」
奏音は、桜の両手をすっぽりと自分の手で覆い、きゅっと綿を掴むときのように優しく握りしめた。
「桜さんの音楽が、少しだけでも分かって嬉しいです」
「そんな、大袈裟ですよ」
「いいえ、そんなことありません。音楽は、人によって本当に違いますから。同じ曲なのに、まるで月と太陽であるかのように正反対に聞こえる」
音楽学を研究している奏音の言葉には、説得力があった。
だから、桜はその言葉を素直に受け入れることにした。
窓の外を見ると、月が出ていて周りをぼんやりと照らしている。
「パリ、楽しみですね」
「はい」
「それでは、僕は帰ります。もう遅いので、玄関までで大丈夫ですよ」
奏音は鞄と今日買ったものを持って家を出る準備をした。
桜は奏音よりも先に部屋を出ると、奏音もその後に続いてピアノ室を後にした。
そして、ゆっくりとその扉を閉めた。
外は、ちょうど良い気温で夏の夜は賑やかだ。
誰かが誰かと大声で話している声が、2人の耳まで聞こえてくる。
「では、当日は家まで迎えに来ます」
「ありがとうございます」
「寝坊、しないでくださいね」
「しませんよ」
ふふっと桜が笑うと、奏音もまた同じように笑みを浮かべた。
奏音は暗闇の中に消えていき、その姿が見えなくなるまで桜は奏音の背中を見守っていた。



