桜は部屋に着くなりすぐにピアノを準備する。
奏音はそのピアノを見ると、美しく傷1つない鍵盤を触りながら
「これを10本の指で弾いて音楽を奏でるんだから、すごいですよね」
と、不思議そうに言う。
「僕なんて指がもつれちゃいます」
「慣れれば、大丈夫ですよ」
そう言って、桜は奏音に椅子に座るようにジェスチャーした。
奏音は、鍵盤のちょうど真ん中の位置に置かれた椅子に座る。
その横に、ピアノのレッスンの時と同様に桜は椅子に腰掛けた。
「何か、弾きたい曲はありますか?」
「この前、桜さんに弾いてもらった愛の夢はどうでしょうか? 初めの部分だけでも」
その曲名を聞いた桜の心臓は大きく脈を打つ。
「それでいいんですか?」
「ええ、桜さんのを聴いて、ぜひ僕もあんな風に弾きたいと思ったんです」
それを聞くと桜は、棚の中からリスト曲集をピックアップして、奏音の目の前に置く。
「それじゃあ、ここまでをまずやりましょう」
ちょうど、曲の切れ目までを指差すと、奏音は「はい」と返事をする。
その姿は本物の桜の生徒のようだ。
桜の声と奏音の声とピアノの3つの音だけが部屋中に響く。
その空間は、春の日の誰もいない草原のように穏やかで、まるで非現実的な感じを醸し出す。
そのどこか掴みどころのない何かを、奏音は無理に掴もうとはしない。



