夏が近づいてきた蒸し暑い日の放課後
 優しいオレンジの光に包まれた教室で私は先生に問う
「先生、私のこと覚えてますか?」
 先生は驚いてこちらを見る。
それはそうだ。「数学を教えて欲しいです」と言って呼び出したのに教室に着いた途端数学ではなくこんな質問が飛んできたのだから。
 先生は驚きを隠すかのように「数学はいいのですか?」と質問を返してきた。
「質問を質問で返さないでください。
 それに数学を教えてくれなんてただの口実です。」私は素直にそう告げる。嘘は嫌いなのだ。
「そうですか…。」
「先生、質問に答えてくれると嬉しいのですが…」
 鳴り響く自分の心臓と緊張感にもう耐えられなかった。早く答えをもらってスッキリしたいのだ。
「ああ、失礼。質問の答えですが貴方のことは覚えてますよ。」
「本当ですか!!??」
 私は嬉しくて思わず大きな声を出してしまった。
 先生は少し笑いながら
「ええ、本当ですよ。
 いつも熱心に授業受けてくれてましたよね。まぁ、その割にテストの点は…」
 そういいながらいたずらっぽい顔でこちらを見る先生にドキッとして思わず目をそらす
「それは言わないでください。あれでも頑張って勉強したんですから。」
「そうですか。それは失礼しました。」
 小さく笑いながらそう言ったと思ったら急に私の頭に重みと暖かさがのしかかる。びっくりした。先生の細く大きな手が私の頭を優しく撫でる。心臓が破裂するんじゃないかってくらい鳴って顔が熱くなっていく。
 今が夕方でよかった。暮れる前の真っ赤な太陽のせいだと言い訳ができるから。そんなことを考えていると頭から手が離れた。先生を盗み見るといつものような無愛想な顔でこちらをみつめわたしが何か言うのを待っていた。先ほど考えた言い訳を言おうか悩んだがきっと先生には全て見透かされている。そんな気がして言うのをやめた。私はかわりの質問を投げかける
「先生はどうして数学の先生になろうと思ったんですか?」
 ありきたりであろうつまらない質問に真剣に考えてくれる
「そうですね…。
 数学って得意不得意がハッキリと別れる教科じゃないですか。」
「たしかに…。」
相槌をついた私を横目に先生は言葉を続ける
「だからこそ数学は得意ではないけど好きって思ってくれる人が増えたらいいなと思って先生になろうと思いましたね。」
「なんか、難しいですね。得意ではないけど好きってなかなか思えないですよ。」
「そうですねぇ。できないのに好きなんてなかなか思えないものです。でも問題が解けた時の喜びはきっと数学を好きになるきっかけにはなると思いますよ。だから諦めずに解いてみて欲しいです。そして分からなかったら聞いて欲しい。手助けをするのが教師の役目ですから。」
「かっこいいですね…。実は私初めての授業で先生が教えてくれて問題を解けたときすごく楽しかったです。あの時初めて数学が楽しいと思えたんですよ。だから先生には感謝してます。」
「それはそれは。教師にとって最大の褒め言葉です。数学を楽しいと思ってくれてありがとう。」
 お礼を言うのはこっちなのに。
 やっぱり先生は変な人だ。
「あと、私先生の字も好きです。」
「おやおや、すごく褒めてくれますねぇ。そんなこと言ってもなにも出てきませんよ」
そう言って先生は笑う
「別にそう言うつもりで言ったんじゃないので。」
 私は今更恥ずかしくなってきて素っ気ない態度をとる「そうですかそうですか。」
 そう笑いながら先生はスーツのポケットを探りイチゴ味の飴を出す。体温とスーツの匂いがついた飴が私の手に渡る。
「みんなには秘密ですよ。」
 驚いたのと嬉しいので私は一瞬固まってしまう。 
「あ、ありがとうございます…。私口固いので安心してください。」
 不安だなー。そう言いながら先生は笑う。シワがよってクシャッとなる。
 言うもんか。誰にも教えない。すごく小さな二人だけの秘密。私にとってはすごく大きな先生との秘密。私はその時だけ先生と同じ場所に立ててる気がした。でもそんな時間はすぐに終わりを告げる。下校の音楽が二人だけの教室に鳴り響いた。
 先生が腕時計を確認する。
「ああ、もうそんな時間ですか。」
 こちらをみて
 「もう帰りなさい」と穏やかな顔で告げる。
 もし嫌だって言ったらどうするんだろう。まだ一緒にいてくれるかな。そんなことを考えたがこれ以上一緒にいても困らせてしまうだけだと思い口に出すのはやめた。
「先生。また数学教えてくれますか?」
 少し悩んだあと先生は 
「えぇ、いいですよ。」と答えてくれた。