秀頼はあの宴があった日から元気がない。
覇気もなく常に考え事をしているというかとにかく落ち込んでいるようだった。

ある朝、秀頼は重い口を開いた。
「右大臣を辞任しようと思う」
一連の話を聞かされてなかった千姫は驚いて何も言えなかった。
淀殿は涙を流しながらしきりに秀頼に謝った。
「こうするのが今は最善なんだと思う。
やれることを一つずつやって行こう」

秀頼の右大臣辞任のニュースは瞬く間に知れ渡った。
秀頼が官位を失ったことで
秀忠の方が上になったなのでは?
という世論が広がった。

徳川家にもこの報せはすぐ届いたようだ。
家康は秀頼の右大臣辞任を確認すると、すぐに京の二条城を出て駿府で隠居暮らしを始めることにしたようだ。
家康はこの時から「大御所様」と呼ばれることになる。
数日後、家康から秀頼に手紙が届いた。


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秀頼様
ご成人おめでとうございます。
年寄り故、お祝いに行けないことお許しください。
約束通りお預かりしていた豊臣家の政務権はお返しいたします。
これを以て私は完全に引退しまして、駿府城で隠居生活を送ることにいたしました。
家康
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家康は天下については触れなかった。
手紙を持って来た広橋兼勝によると、
・江戸幕府の事は朝廷からの命令で開いたものであり、豊臣家の家政とは無関係である。
・故秀吉公との約束は秀頼公が成人するまで豊臣家の執務を執り行うことであるからして、約束通りである。
・家康ほど義理人情に厚い方は他にはいないので、感謝すべきである
ということだった。

この瞬間、豊臣家は徳川幕府から自治権を許可されたことになる。
「なによ、なによ!!」
淀殿は悔しがって涙を流した。
一昨年の秀忠将軍就任で覚悟はしてたものの、いざそうなると悔しい。

淀殿が頑なに徳川家康を「豊臣家の家老」だと言っていたのには、
豊臣家政の中に日本の政権運営、つまり天下があるというスタンスをとっていたからだ。
実際は江戸幕府が開かれてからは豊臣家政と天下は別のものになっていたし、
この数年は家政は単なる家康の言いなりとなっていた。
そんなことはわかっていたけど、認めたくなかった…。

「徳川の言いなりになっていた今までよりも
豊臣は豊臣でやっていけるようになったんだ。
この間も言ったように、一からスタートして行こう。
時間をかけて信頼関係を築いていこう」
そう言う秀頼はやはり悲しげだった。