多喜と秀康、2人の出会いは今から約20年前のこと。
小牧長久手の戦いが終わった天正13(1585)年の頃だった。
織田家の家督争いはいろいろ拗れた挙句終結し、代理で戦っていた羽柴秀吉と徳川家康は和睦を結んだ。
その和睦の証として、家康は次男の於義丸(おぎまる)を人質として大坂城に送った。
家康の長男はすでにその時他界していたのだが、家康は次男を差し出し三男を手元に置いた。
於義丸は秀吉の養子となり、名前も秀康(ひでやす)と命名された。
多喜は江の侍女として扱われていて、茶々や初と共に大坂城で暮らしていた。
大坂城には人質としてやって来た子供や敗戦で行き場をなくして保護された子供たちが沢山いた。

徳川家の次男に生まれたのに徳川を名乗ることを許されなかった少年と
浅井家の姫に生まれたのに織田の家臣として生きることになった少女。
歴史に「もしも」はないけれど、もしかすると違った人生があったかもしれない。
そんな2人が意気投合するまでにそう時間はかからなかった。

せわしない戦国時代。
多喜は、江にずっと付き添う。
羽柴秀勝との再婚に付き添い聚楽第に行き、その後秀勝が病死すると伏見城に居を移す。
秀康は秀吉の期待に応えるため、九州征伐や小田原征伐や朝鮮出兵に参戦し全国を転々とする。
そして、結城家に婿養子に出されたため常陸へ向かう。
しかし出陣要請が後を絶たないため、秀吉の居城である伏見にいることが多かった。
その後、江は秀忠と再々婚する。
多喜は、秀康にとって腹違いの弟の妻の侍女となった。
色々ありはしたが、2人が顔を合わせる機会は多かった。

それは、2度目の朝鮮出兵、慶長の役の時(1587年)だった。
1度目の文禄の役の時、大勢の武士たちが命を落とした。
その時秀康は予備軍として肥前の名護屋に詰めただけで済んだが、今回はどうなるかわからない。
土地勘も全くない異国の地。
生きて帰って来れる保証はない。
会えるのは、これで最後かもしれない。
2人の思いは交差した。

その後、秀康は戦地へと向かっていった。
泥沼の消耗戦が続く中、伏見城で秀吉が死んだ。
老衰だった。
家康はパニックが起こらないように順序良く現地に知らせを出し、全軍を撤退させ、無謀な戦いを収束させた。
国内は不穏な空気が渦巻いていた。
秀吉が消えた今、残された子供に何ができると言うのか?
天下をめぐって争いが起ころうとしていた。

家康はまず後継の秀忠を江戸に避難させた。
勿論江も多喜も一緒だ。
秀康が伏見に戻った時、多喜の姿は当然無く、秀康もまた所領の常陸に向かうように指示された。
その後すぐに関ヶ原の戦いが起こる。
秀康はその功績の褒賞として越前を譲り受けた。
そして家康から松平の姓を使用することを許可され、結城秀康から松平秀康と名を改めた。
大きな叙任式があったのは去年のことである。
上洛し久しぶりに会う兄弟揃って朝廷で官位を賜った。
久しぶりに会った秀忠から千姫の話を聞いた。
今年に入り、伏見城代を命じられた。
久しぶりの変わり果てた伏見城。
そして久しぶりに会う人たち。
かつて、「義母上」と呼んでいた寧々さんとも会う機会があった。
寧々さんからも千姫のことを聞いた。
そして、多喜のことと千姫によく似た娘のことを聞いた。
秀康は居てもいられない状態になり、大坂にやって来たのだった。