一年の動きは朝廷から始まる。
去年大きな叙任を行ったところ、徳川家をはじめとする有力大名がこぞって官位を辞退したため、後陽成天皇は非常に怒っていた。
そのごちゃごちゃが収まっていない為に今年は大きな叙任はないが、
代わりに華を咲かせたイベントが徳川家康の5才になる9男と4才になる10男の朝廷での元服式であった。
本来は徳川宗家を継いだ秀忠の長男竹千代に元服をさせてあげたいと朝廷は申し出たのだったが、家康は断固として反対した。
竹千代は今年2歳。
「さすがに幼過ぎる」
ことと
「甥が先に元服してしまっては叔父として示しがつかない」
とのことで断りを入れたそうだ。

元服を終え、9男は義直(よしなお)・10男は頼宣(よりのぶ)と名を改めた。
「源氏の棟梁の家柄らしく、(みなもとの)頼朝(よりとも)様や義朝(よしとも)様から一字をそれぞれ賜りました」
「ありがとうございます…」
頼宣の頼は、頼朝の頼。
源頼朝と言えば、鎌倉幕府を開き武士の世を作り上げた大英雄、義朝はその偉大なる父である。
源頼朝の名を出されれば家康も賛成せざるを得ない。
しかし世間はそうは思わない。
頼宣の頼は、秀頼の頼。
やはり豊臣家は徳川家の主家であるのだと判断する。
それこそが朝廷の狙いでもあったし、家康が竹千代を絶対に元服させたくなかった理由でもあった。
これから徳川家を継いでいかねばならない竹千代に豊臣を連想させる名などつけてたまるものか…!
秀忠の「秀」の字すら煩わしく思っている家康だったが、今表立って豊臣を蹴落とすのは得策ではない。
今もこうして公家の中には豊臣を支持する勢力も多いのが事実だからだ。