その頃、徳川家康はイライラしていた。

家康は相変わらず外交などで忙しい。
スペインを経由してメキシコと貿易を始めたり、タイから硝石を輸入したり商売に力を入れ国力をあげようと努力している。
南蛮の地では、どうやらスペインの無敵艦隊とやらが敗北し、新興国のオランダが勢力を伸ばしていた。
オランダはスペインと違って布教を目的としない国交を望む国である。
最近のキリシタン達の扱いに困っている家康からしたら、オランダは貿易相手として願ってもない相手だ。
最近はオランダを支援しているイギリスの遣いがしきりに駿府を訪れている。
イギリスも南蛮の先進国で最先端の武器を沢山持っている。
家康は注意深く交易を開始した。

駿府の街づくりと併せて名古屋城の普請にも取り掛かり始めた。
それに加えて江戸の監修などもある。
はっきり言ってめちゃくちゃ忙しい。

そんな中、天皇職を放棄したい後陽成天皇から「譲位するから認めろ」という書状がしつこく送られてきていた。
政仁親王ももう数えで15歳だし元服するのにちょうど良い年頃である。
元服はちょうど良い。
譲位もまぁ仕方ないところがある。
しかし、問題は上洛しなくてはいけないところにある。
家康は本っっ当に忙しい。
家康の挙動が国交にいちいち関わって来るので、半年から一年前からアポイントを取ってくれないと間に合わないのだ。

朝廷は”良き日”を占ってそれに合わせて上洛しろとか何とか言ってくるが…
朝廷に合わすんじゃない、
わしに朝廷が合わせるべきじゃろう!!!
京の宮中に引き篭もって一歩も動かないような奴らの都合になぜこのわしが合わせねばならんのだ?
大体秀吉が朝廷を甘やかし過ぎたのだ。
あやつが大したこともない用事でほいほい呼ばれて主上に媚びを売る前例を作ってしまったのがそもそもの間違いなのだ。
譲位は大した用事ではあるが…しかし朝廷が軽々しく将軍を呼びつけるような仕組みは無くしていかねばのう…。