そのあとは泣いている場合ではなかった。
 お部屋に呼ばれてしまった。
 弟子としてでないのは当たり前であるが、多分、今までとは違った意味で。
 妙なことはしないと言われたが、なにかはあるのだろう。
 それがなんなのかがぐるぐると頭を回って、泣いているどころではなかったのだ。
 涙など引っ込み、しかしなにもせずにはいられなかったので、結局日常に戻ってしまった。
 夕餉の支度に顔を出した金香を見て、「おや、泊まりじゃなかったのかい」と厨の飯盛さんと煎田さんにも訊かれてしまったが、今度は泣かなかった。胸はずきりと痛んだが。
「ちょっと都合が悪くなってしまったんです」とだけ答えて、夕餉の支度にいそしんだ。
 今夜は天ぷらだった。大鍋で幾つも野菜や海老、魚などを揚げていく。
 揚げ物をする日は普段以上に火の扱いに気を付けなければならない。集中するのにはぴったりであった。
 そんな夕餉も無事出来上がり、皆で美味しくいただき。そして夜も更けた。
 湯を使い、金香は迷った。
 なにを着ていったものか。
 お部屋に呼ばれたが、妙なことは無いのだ。
 それなら普段着のほうが良いのか悩んだが結局、以前と同じように部屋着に使っている浴衣にしておいた。寝るときのものよりは少し厚手で、そしておろして日も経っていないものだ。
 薄い桃色に淡い色の花が散っているそれは、一目見ただけで気に入った。大切に着ようと思った矢先であったのだ。ちょうど良い、のかもしれない。
 何時においでとは言わなかったが、麓乎のほうも湯を使い終えて寛いでいる頃合いだと知っている時間に、金香は思い切ってお部屋を訪ねた。
「ああ、いらっしゃい」
 麓乎はなにも気にしたことなどない、という様子で金香を迎えてくれた。
 しかし金香はどきりとしてしまう。麓乎はしっかりと夜着姿であったので。
 その姿を見たことがないとは言わない。もう同じ家に暮らして久しいのだ。むしろ何度も目にしている。
 しかし夜、そして妙な誘い方をされた夜だ。意識してしまっても仕方がないだろう。
 それでも逃げ帰るわけにはいかない。内心、ぎゅっとこぶしを握るような気持ちになって、金香は「お邪魔いたします」と中へ入った。
 麓乎の部屋は、普段麓乎のまとっている香の香りで満たされている。そこへ入るだけで、金香は麓乎に抱きしめられている気持ちにもなるのだった。
「今日は色々とあって疲れただろう。歩いただけでも遠かっただろうに」
「……はい」
 座布団を勧められて金香はそこへ座る。まったくいつもどおりだった。
「それにここのところ、頓(とみ)に冷えるしね」
「大寒を過ぎれば少しやわらぐだろうが」
 麓乎の話すことも、まったくいつもどおり。
 相槌を打って聞きながら、金香はむしろ拍子抜けしてしまう。
 気構えなど要らなかったのだろうか、などと思ってしまって。
 しかしその気構えはやはり必要だったのである。
「夜はやはり、特に冷える」
 金香はそれを何気なく聞いたのだが。
 次に言われたことに、思考は停止した。
「だから、今夜は泊まっておいで」