ほどよい木洩れ日が、ディアナの心を和らげる。深い緑の清廉さは、すべてを洗い流してくれるかのようだった。

「緑が輝いているようだわ」

 思わず、ディアナは声に出して喜んだ。

「この遊歩道、俺がひとりで作ったんだ。もとはケモノ道だったんだが」
「へえ、グリフィンが。器用ですね」

 土はよく踏み慣らされており、迷わないように煉瓦の目印がところどころに置いてある。段が続く場所は、グリフィンがディアナの手を引いてゆっくりと進んだ。

「もう少しだ」
「はい」

 最後の一歩を踏むと、やさしい風が通り抜けた。
 眼下には、三百六十度ぐるりと全面に、ルフォンの城下町が広がっている。視界を遮るものはなにもない。

「すごい、絶景です! 壮観ですね。町が、私の手にも取れるみたいです」
「ちょっと登っただけなのに、いい感じだろ?」

「先日遠乗りに出かけた、コンフォルダ宮殿もかすかに見えます。ああ、向こうの辺が、私の国との国境ですね。通って来た道に、覚えがあります」
「そうだな。しかし、他の国の者にこうも俯瞰されてしまうのは軍事上、よろしくないことだから、ここで眺めた景色のことはいっさい黙っていろよ」
「よろしくない、とは?」

「お前が銀の国の密偵だったしたら、の場合だ。そんなこと、あるはずないが。こんな鈍くさい密偵、命がいくつあっても足りねえな」
「まあ、お口の悪い王子さまだこと」

 久々にディアナは心の底から笑った。

 突き抜けるような空の青。
 連なる家々は煉瓦の赤茶と薄茶色。
 町中を張り巡らされている石畳の白。
 淀んでいた悩みが、あっという間に洗い流されてゆく。

「いやなことがあると、俺はここに登るんだ」
「俺様で強引な第二王子にもいやなことなんて、あるんですか? なんでも思い通りになりそうなのに」

「……傷つく物言いだな。一段落ちる身分の第二王子さまだぜ、たまにはあるさ。ここ、夜景はもっときれいだぞ。控え目な町の灯りが、地上に降った星のようにまたたいて、あたたかくゆらめく」

 ディアナは夜の景色を想像した。夕餉を囲む明るい家族の灯りが、笑顔とともに浮かび上がる。

「見たいです。ぜひ、一緒に連れていってください」
「暗いぜ。足元も悪いし」
「がんばります! 今夜にでも」
「ふたりっきりになるんだぞ」
「はい!」

「お前さ。意味、分かってんのか? 夜、暗がり、若い男女がふたり。目の前にはうつくしい夜景」

 男女の仲に鈍いディアナ、言われたことを具体的に想像してみる。……一線を越えてしまいそうな、けっこう危険な場面が思い浮かんだので、あわてて打ち消した。

「あ、そうでしたね」
「……まったく。書庫での続きをやりたいなら、俺は一向に構わないが」

 不敵な笑みで、グリフィンは冗談を交えた。

「いえ、書庫の続きではなく、夜景観賞ということでお願いします」

 ディアナは頭を下げた。

「仕方のないやつだな。度胸だけは、無駄に姫らしさに満ち満ちている。……王太子の容体が、落ち着いたら観に来ような。今は、不用意な行動をなるべく避けたほうがいい。お前も、俺も」
「あ、ありがとうございますっ。約束、ですよ絶対に。それと、不謹慎な振る舞いは×ですからね」

 嬉しくて思わず、ディアナはグリフィンの腕にしがみついた。

「おい、誤解するだろ。離れろ、早くパンの続きを食えっ。誰がお前なんかに不謹慎な振る舞いをするか」

 語気こそ荒々しかったが、グリフィンの目はやさしく、笑っていた。

「はい、確かにおっしゃる通りです」

 長い髪をたなびかせる風が心地よい。パンをかじるディアナの隣、草の上に寝転んだグリフィンは、いつしか眠っていた。ここに座っていれば、世界のすべてを手に入れたような気持ちにさえなれる。

「ごちそうさまでした」

 安らぎを得たディアナも、グリフィンの傍らにそっと横になって、空を見上げる。切なくなるほど、空は青く高い。

「王太子さま、早くよくなりますように。天馬、見つかりますように」

 ディアナのつぶやきに、眠っていたはずのグリフィンが答えた。

「そこは、『早く、私の嫌疑が晴れますように。キールさまと結婚できますように』だろうが」
「自分のことばかりじゃないですか」
「お願いなんて、自分のためにするものさ。もっと強い馬が生まれますように。たまには、ディアナと密会できますように」

「ええ? なんですか、それ」
「別に。本音」
「またご冗談を。人が信じたら、嘲笑するくせに」
「今のは、本心だから。愛らしい極上の唇と、もっと口づけできますように」
「王子、冗談ばっかり」

「ほんとうさ。お前をキールに渡したいようで、渡したくない。俺のしるしを、ディアナに刻み込んでおきたい。……あいつとは、昨夜遅くまでなにをしていたんだ」

 グリフィンは、ディアナの体をそっと抱き寄せた。驚いたディアナはすぐに身を起こしたけれど、遅かった。グリフィンの腕に縛られたような形で、ディアナは自由を失った。

「わ、私は、王太子さまに毒を持ったと疑われている身の上です。グリフィン、どうか離して」
「いやだ。キールに、肌を許したのか?」
「許してなんかいません。確かに、よ、夜這いをかけられましたが、王太子さまの報が入り、未遂でした」
「ほんとうか」
「ほんとうです」

「ならば、王太子の危篤がなかったら、ディアナは流されていたというんだな」
「流されてなんか、いませんってば。あんまりしつこいと、た、助けを呼びますよ?」
「呼びたければ呼べばいい」

 意地悪。呼べないことを知っているのに。

「あなたは、どうして。キールと結婚しろとか言いながら、密会したいとか、矛盾したことを言うの?」
「さあな。ディアナが誘っているんじゃないか、俺を」
「ひどい、そんなの」

 自分はどうして、この人に心をかき乱されるのか。なんとも思っていないなら、無視して深く傷つけてくれればいいのに。今はグリフィンに頼るしかないという消極的な判断と、どうしてもグリフィンから目が離せない自分がいる。

「王子……」

 グリフィンの顔が近づいてきたのでつい、ディアナは甘い誘惑に負けて目を閉じそうになった。アネットの悲鳴で、正気に返った。

「きゃあああああああああーっ、ディアナさまーっ」