途中で出くわした兵士に、王太子の部屋への案内を乞うて、ディアナとアネットは向かったけれど、部屋に近づくにつれて異変が手に取るように感じられた。集まっている人々の不穏な雰囲気、暗い顔、低い声、囁かれる噂話。決して、夜が遅いせいだけではない。
 皆、疲れ切って、困り果てている。

「入れるかしら」

 自分の身の上を思った。ただの居候、客人。国を起つときは『王太子の婚約者』だったが、いざ到着してみればただの厄介な客。

「ディアナです、入室をお許しくださいませ」

 王太子付きのアネットは戸惑いを浮かべたが、ディアナの声に反応してくれた人がいた。

「ディアナか、こんな遅くにわざわざ済まないな」

 グリフィンだった。おそらく、もっとも血の薄い人物として、王太子からは遠い位置に控えていたのだろう。キールとの騒動直後だけに、グリフィンの顔を見て、ディアナはほっとした。

「いいえ、お、起きていましたから。王太子さまは、いかがですか。報せを聞いて、驚きました」

 グリフィンは、静かに首を横に振った。

「就寝前になって、突然苦しみはじめたそうだ。夕餉の席では、いつもと変わらなかったと聞いているが」
「ええ。お食事は、普通に召し上がっていらして。少しお酒も入って、とても上機嫌でした。王と王妃さまも視察が長引いているとのことで、席に着いたのは王太子ご夫妻とキール、それに私の四人だけでした」
「……そうか。俺は今夜、食事を欠席したからな。今になっては、悔やまれる軽率さだった。とりあえず、入れよ」
「はい」

 許しを得たディアナはグリフィンを先導にして、王太子の部屋に入った。広いだけではなく、装飾も調度品もきらびやかで眩しい。さすが、大国の王太子の居室だけある少々、怖気づいてしまった。

「寝室はこっちだが、俺は手前の控えの間までしか入室を許可されていない。寝室にいるのは、王と王妃、それに王太子妃だけだ」

 グリフィンの視線の先には、壁際に沿って椅子が並べてある。先ほど別れたキールが、暗い顔で床を眺めて座っている。

「キール。王太子さまには、面会できましたか」

 おそるおそる、ディアナはキールに話しかけた。キールはディアナの声を耳にして、ようやくディアナの到着を知ったらしい。

「……ああ、ディアナか。ディアナ。銀の国の、ディアナか」
「それを言うな、キール。ただのお姫さまのディアナが、なにかできるはずがない。そうだろう?」
「でも、銀のディアナだ」

 キールは引っかかる物言いをしたから、ディアナは追及した。

「なんですか、その『銀、銀』って」
「やめろ、ディアナ。お前には関係ないことだ、知らなくていい」

 ふたりの間に、グリフィンが割り込んだけれど、キールもやめなかった。

「鉱毒なんだって、王太子が身をおかされているのは。分かる? 銀を精製する過程で、人体には有害な物を使うだろう、あれだよ。山から採った銀の鉱石を、化学的に反応させて純粋な銀だけを抽出するだろう、あれ」
「ただのディアナが、鉱毒を盛るわけないぜ。盛ってどうなる。王太子の座がキールに移るだけだ。ディアナには恩恵は薄いだろう」

「そうかな。現王太子を廃せば、わたしと結婚するディアナは、すぐに王太子妃の座を手に入れられる。そうなれば、銀の国も喜ぶだろう? もともと、ディアナは王太子妃として輿入れしてきたんだ。王太子妃になるために、作戦を変更して力づくでも手に入れる、そんな気合いがあってもおかしくはない。あまり声を大にはできないけれど、銀の国の窮乏振りには目が余る。ディアナが持参したドレスはどれも高価そうだが、少し時代がかっていて現代風じゃない。つまり、婚礼の衣裳を仕立てるにも困っている、ということ」

 ディアナの衣類はすべて、とりあえずの間に合わせばかりなのだ。結婚が急に決まったから、というのを理由に、服は新調しなかった。もちろん、多額の婚礼支度金はもらったが、すべて国庫に納入した。用意した衣裳は、自分のものや母のお下がりドレスをリフォームしたもの。

「ぽわわんとしたこいつに、大それた野望があるように見えるのか、キール? 邪推はもう、よせ。ディアナの前だ」
「いいや、やめないね。この国の王太子にあだなす人物は要らない。たとえ、銀のディアナであっても。ディアナ、夕餉で王太子になにかしただろう」

 ディアナの部屋に忍んできたキールとは、まるで別人のようだった。瞳は冷たく炯々と輝き、少しも笑っていない。思いがけないキールの豹変ぶりに、ディアナは動揺した。背中に冷や汗が流れるのが分か
った。
「していません、絶対に。夕餉でも王太子の席と私の席はいちばん離れているもの。隣にでも座っていたらそんな可能性も捨てきれないけれど、私はなにもしていない」
「しらばっくれるつもりかい。グリフィン、この子、男女の仲にはめっぽうとろそうな顔をして、今夜、夜這いしてくれとわたしに迫ってきたんだよ。抱きついてきたり、唇を吸ったり。なかなかのやり手かもねえ。でも、そういうの、嫌いじゃないよ、わたしは。いじめがいもあるし。腹黒いのは好きだよ」

「キールお得意の、妄想か。で、王太子は」
「ちぇっ、妄想じゃないのに。兄さまはまだ、気がついてないよ。現実と夢の狭間をいったりきたり。浅く意識が残っているようで、余計に苦しそう。ディアナ、王や王妃、特に王太子妃が殺気立っている。早くここを立ち去ったほうがいい」
「殺気? なぜ」

 ディアナは訊ねた。

「鉱毒。分かるだろう、ディアナ。きみは銀の国から来た、ディアナ。鉱毒を操るのもお手のものだろうと、王太子の枕元ではそういう話になっている」

 怒りを通り越し、呆れた。

「まさか、私が毒を?」

 王太子の傍に寄ることが許されなかったグリフィンも、状況を悟ったらしい。キールはディアナを責めるふりをして、遠まわしに警告を鳴らしていたのだ。目の前には多くの従者や使用人が行き交っている。ここに居合わせているほとんどは敵なのだ、と。

「声が大きい、ディアナ。まずいな、早く部屋に……いいや、部屋に戻っても、多少遅いか早いだけで、同じか」
「どこかに隠れたほうがいいかもね。わたしの部屋に来る?」
「そんなことをしたら、余計に疑われるだろうが。ディアナは無実だ」
「いいじゃん。ディアナとわたしは、らぶらぶなんだ。今夜だって、ずっと一緒にいたんだから。部屋に早く戻るよう、きついことばを投げたのに、ディアナには逆効果か」

 キールの主張を聞いて、グリフィンの表情が少し強張った。

「おい。一緒、だった? こんな、夜更けまで?」
「そうだよ、察して。さっきも言った。相変わらず鈍いなあ、グリフィンは。毎日、馬ばっかり眺めているからだよ。少しは人間の女の子も観察してみれば?」
「待って。それ、ちょっと違います。一緒にいたけど、なんて説明すればいいかしら。いえ、今こんなことを話している場合じゃ」

「そこに、銀の国のディアナがいるのか!」

 三人で、きゃあきゃあ問答をしていたため、寝室に控えている人たちも騒ぎが聞かれてしまったようだった。