「電話、ありがとう」
 いつも通りなショーンの声に、由莉は泣きそうになった。
「何度か電話したりメッセージ送ったんだけど、繋がらなかったから……電源切ってるんだろうなって。由莉のほうから連絡くれるの待ってたんだ」

こんな騒ぎになり、一人おびえて隠れているようなイメージが頭のどこかにあったが、ショーンはもう傷つきやすいだけの少年ではない。冷静に事態を受け止め、衝動的に動いたりもしなかった。自分なりに考えて静かに待っていてくれた。そのことが頼もしくもあり、素直に嬉しかった。

「心配かけちゃったね。ごめん」
 にじんでくる涙を指先でぬぐいながら、由莉は言葉を選んでゆっくり話しはじめる。
「高宮と話し合うのが先だと思ったから」

 名字で奏のことを読んだ由莉に、ショーンは息をのむ。
 別れると決まったからには、下の名前ではもう呼べない。これからは二人が会う機会も、ほぼなくなるだろう。

「ロケ先から戻ってきた彼とさっきまで話してて、離婚することになったの」
「えっ……もう決まったの?」
 戸惑うような声が意外で、由莉は少し表情を硬くする。
「そんな、困ったみたいな反応されると傷つくんだけど」
 大人げないと思いながら正直な気持ちを口にすると、やや間を置いてショーンが低い声を発した。
「雑誌が発売されて丸一日も経ってないのに、あの人、離婚に同意したわけ?」
 どこか怒りを含んだような口調で質問され、今度は由莉が戸惑った。

「いや、俺が言うことじゃないってわかってるよ。でも、今まで由莉を裏切ってたくせに、手のひら返して切り捨てるみたいに……」
「待って、そうじゃない」
 どう説明したらいいか迷いながら、それでも由莉は取り繕ったりせず、事実をありのまま伝えたかった。

「高宮が言うには、売名のためにショーンから横取りして結婚したけど、もうそろそろ潮時だと思ってたって。はじめからいつか離婚するつもりでいた、本来の相手に返してやるって……私に謝罪させないために悪ぶったのかな。最後まで本音がわからなかった」
「由莉にそんなひどいこと言ったんだ?」

 電話の向こうで、ショーンは長いため息を吐いた。

「もし一緒に仕事する機会がなかったら、真に受けて怒ってたかもしれない。あの人は由莉を独占したがってたし、俺が近づくことに嫉妬もしてた。愛情がなかったとは思えないよ。由莉に憎まれるようなことを言ったのもわざとで、あの人なりにけじめつけるために必要だったんじゃないかな。プライドもあっただろうし」
「……そう思う?」
 ショーンは「うん」と言った後、ちょっと笑った。
「ごめん。俺が言うことじゃないね、ほんと」

 彼が誰かについて話すことは珍しいが、たまにその洞察力に驚かされることがある。人間が怖く、なかなか心を開けない性格なだけに、逆にそういう感覚が鋭いのかもしれない。
 つい先ほどということもあって、奏が話した内容を、由莉はどう受け止めたらいいかわからなかったが、もう終わりなのだから忘れるべきだと思っていた。でも、このもやもやした気持ちをに蓋《ふた》をかぶせて新しい人生を歩き出そうとしたら、ずっと心のどこかに引っかかりを感じたまま生きることになるかもしれない。

「ううん、どう思うか聞かせてくれてよかった。私もけじめつけなきゃね。ちゃんと考えて、私なりの解釈ですっきりさせたい。それから前に進むことにする」
「わかった。待ってるよ」
 ショーンの言葉がやさしく耳をくすぐる。
「高宮が近いうち会見ひらいて離婚を発表するって言ってたから、しばらくは騒がしいと思う。カオルさんには私から説明しておくね」
「うん、ありがとう」

 約束していいかどうか、少し迷ったが、由莉は思い切って口を開いた。

「次に会えるのは、たぶんちょっと落ち着いてからになるけど、その時には……」
「俺だけの由莉になってて」
 真剣な声にさえぎられ、由莉はドキッとした。

「後悔なんか絶対させないから」

 ショーンの言葉はストレートで嘘がない。だから一緒にいて気持ちが楽だし、彼だけは無条件に信じていられる。思い返せば昔からずっとそうだった。

「ありがとう、ショーン」

 涙があふれて止まらない。でも由莉は泣いているのを隠そうとはしなかった。ショーンに対しては、どんな感情でも伝えていきたいと素直に思える。
「もしかして泣いてる?」
「うん。とんでもないことに気がついてしまって」

 由莉は今までばく然と、心の中から高宮奏がいなくなったら、同じ場所にショーンがおさまるのだろうと思っていた。だが、そうではなかった。彼女の中での二人のポジションは全然違う。

「私、何にもわかってなかった。高宮のためって言いながら、自分がしたい努力しかしてなかった。勝手に思い込んで押しつけておいて、どうして喜ばれると思ってたのかな……」

 泣きながら話すのを、ショーンは黙って聞いている。

「温かい家庭とか、信頼しあえる関係とか誠実さ、きちんとした生活、穏やかな毎日……私が高宮に押しつけたことのほとんどは、小さい頃のあなたにあげたいと思ってたものだった」
 もしかすると、由莉本人も自覚していなかったそのことに、高宮は気がついていたのかもしれない。
「あの人は、由莉に何を求めてたの?」
「わからない。何年も一緒にいたのに、わからないの」
 情けなくて、自分自身に失望すら感じる。だが、もう何もかも終わったことで、取り返しはつかないのだ。
「ひどいよね。ちっとも良い妻なんかじゃなかった」

「由莉」

 ショーンは落ち着いていた。
「俺が欲しいものはみんな由莉が持ってると思うから、これから《《それ》》全部ちょうだい。少しずつでも、時間かかってもいいよ。で、たぶん由莉が欲しいものは、俺がみんな持ってる。変なこと言うようだけど、自信あるんだ。由莉と俺は、お互い与えたいものと欲しいものが同じなんだよ。そういうの、世間では相性が良いっていうんじゃないかな」
「相性?」
「うん、だから俺たちは絶対うまくいく」
 少し笑いを含んだ彼の声は、どこか希望を予感させるように弾んでいた。

 相性という言葉が、これほど実感を持って響いたことはない。
 高宮とは努力すればするほど気持ちが離れていくのを感じ、特に結婚してからは幸せより苦しみの方が多かった気がする。浮気を繰り返した彼にも、口に出来ない苦しみはあったかもしれない。それもこれもすべて、夫婦互いに望んでいることと与えたいこととが、ひどいミスマッチだったからと思えば納得がいく。

「ショーン……」
 由莉は小さく震えはじめた体を、片手でさすった。
「会いたくて、会いたくてたまらない。死にそう」
 こんなセリフを吐くなんてどうかしている――そう思いながらも止められなかった。
「俺も会いたい。早く会って、由莉をぎゅってしたい」
 由莉を縛っていた何かが、急速にほどけて消えていく。心の中に、ショーンへの愛しさがじんわりしみるように広がっていくのを感じた。