高宮奏の所属事務所は都心にある。

 人気のある俳優や歌手を数多く抱えており、テレビ放送が始まったころからの老舗の芸能プロダクションだ。五階建ての自社ビルは地下に駐車場もあり、レッスン場やレコーディングスタジオ、トレーニングジムなどの設備が整っているため、四六時中タレントが出入りしている。

「奏さん」
 ジムで汗をかいた後、シャワールームに向かう途中で、奏は後輩タレントの羽田琳に声をかけられた。
「久しぶり」
 穏やかな顔で応じた奏に、琳は意味ありげな笑いを返してよこす。
「なに笑ってんの?」
「んー? 相変わらずかっこいいなって思って」
 琳は長い黒髪を見せつけるようにかき上げ、ぽってりと肉感的な赤い唇を少しとがらせて奏を見上げた。
「あたし、もうすぐ二十五歳になっちゃう」
「今月だっけ? 誕生日」
「うん。だからね、まだ二十四のうちにね」
 ほっそり小さな手で口を覆い隠しながら、琳はささやいた。
「奏さんに抱かれたいなって」
「なんだよ、別れたいって言ったのはそっちだろ」
「だって、奥さんと別れる気ないんだもん。あの時はショックだったからぁ……でも、あたしもオトナになったし? そういう関係もありかなって。ねぇ、まだ二十歳ぐらいに見えるでしょ? やっぱホントに若い子じゃないとだめ?」
 こんな女だったかと思いながら、奏は口元だけで笑い、琳の頭をぽんと軽く撫でた。彼女と付き合っていたのは二年ほど前のことで、後腐れなく別れた後は思い出すこともなかった。
「だめ」
「えー」
 不服そうに頬をふくらませる琳の耳に、奏は小声で言った。
「後で連絡するよ」
 たちまち嬉しそうな笑顔になった彼女を置いて、奏はシャワールームに入った。

 誰もいない脱衣場でトレーニングウェアを脱ぐ。
 筋肉質になりすぎないよう調整しながら鍛えてきた肉体は、アスリートほどのたくましさはないが、適度に引き締まって無駄な肉などどこにもついていない。もともと均整のとれた体型なので、裸体でも着衣でも他人が見惚れるほどスタイルが良い。

 俳優・高宮奏の名前が有名になったのは、由莉との熱愛報道から後である。それまでもテレビドラマや舞台でコンスタントに仕事を得ていたのだが、これといって目立つ存在ではなかった。
 人気モデルとの熱愛から結婚という流れの中で、奏は芸能レポーターとの繋がりを持ち、マスコミとの関係を悪くしないよう慎重に気を使った。
 もともと、きっかけさえあればのし上がる自信はあった。売名と叩かれてもかまわない。どんなチャンスも逃さないつもりだった。

 不思議なことに、由莉との結婚で女性からの人気が高まり、いまや女性誌の抱かれたい男ランキングでも上位に名が挙がるほどだ。一緒に仕事した女優やタレントからも、しょっちゅう誘いの声がかかる。「高宮奏」に抱かれたい女たちにとって、彼が既婚者であることなどブレーキにもならないらしい。

「二十八歳か……」
 冷たいシャワーを頭から浴びながら、妻の年齢をつぶやく。
 由莉は結婚後、モデル時代ずっと長く伸ばしていた髪をバッサリ切り、人妻らしくつつましやかで上品な空気をかもしだすようになった。引退後も変わらずきれいで体型も保っており、このまま年を重ねれば老境に入っても美しいであろうと容易に想像できる。
 二人が住むマンションは都心にほど近く、由莉によってセンス良く整えられた部屋は清潔で心地良い。
 主婦になると決めてから習いはじめた料理もすっかり板についたようだ。衣類も靴もきっちり管理され、あれ出してと言えば即座に使える状態で出てくる。
 奏が何か悩んだり落ち込んでいるとみれば、話を聞こうと優しく声をかけてくるし、良いことがあれば分かち合うように一緒に喜んでくれる。
 誰が見ても非の打ち所のない完璧な妻であった。
 だが、奏が由莉に望んでいるのは、そんなことではなかった。

「潮時」

 少し前から、その言葉が奏の頭に浮かんで離れない。
 分不相応な人気モデルを射止めた時から、これを利用しない手はないと思ってがむしゃらにやってきたが、発作のように時々ふいに、何も知らない由莉をだましたという罪の意識にさいなまれることがある。
 彼女の望むような夫婦関係を築くには、奏が変わればいいだけで、今からでも遅くない気もする。だが、そうすることをかたくなに拒む自分もいた。 

「由莉」

 脳裏に浮かぶ妻は、澄んだ眼差しでまっすぐこちらを見つめている。何ひとつやましいことなどない純粋で真っ当な……奏は苦しくなって濡れた頭をぶんぶん振った。その顔は切なげに歪み、泣きそうにも見えるものだった。
 誰にも見せない素の表情。
 だが、それはすぐに消え、シャワーを止める頃にはずっかりいつもの堂々とした人気俳優の顔になっていた。