「婚約って…。意味が分からない。しかもお父さん、宮園泰造のことずっと敵視してたくせに!」

人の父親を呼び捨てにしてしまったことにはっとして、拡樹の方に目を向けると、柔らかい雰囲気のままただじっとそこに座っていた。

「僕も、父が勝手にやったことだとわかっています。今日は自己紹介をしておきたかったので来ました。これから、僕のことを好きになってください。また今度、ゆっくり話しをしましょう。では、失礼します」

そういうと、立ち上がって出て行こうとする。なんだか拍子抜けした気分になった恵巳は、思わず呼び止めた。

「もう行かれるんですか?」

「女性と2人きりというのにどうも慣れていなくて。相手が婚約者ともなると緊張も倍増してしまいます。そんなに見つめられると、もう少しあなたといたくなってしまいますが、今日のところは我慢します。必ず連絡しますので、待っていてください」

恵巳の右手を取り、箸を握らせた。

「ここの料理、とっても美味しいんですよ。ゆっくりしていってください」

「あ、ありがとうございます」

ついお礼を言ってしまったが、実際はそれどころではなかった。そっと触れた指先から熱を感じ、一気に意識が集中してしまっている。

拡樹は立ち上がると、何事もなかったかのようにふすまを開き、笑顔を向けて出て行った。

「緊張してるようには見えないんですけど」

恵巳が目にした拡樹は、入室したときから今の今まで、少しの動揺も見せずにやり取りを進めていた。終始、場をコントロールしていた。強いて言うなら、最後恵巳に呼び止められたときに、若干驚いたようにも見えたが、それが緊張かどうかはわからない。

だが、嘘だとしても、緊張しているというその言葉は、手の温もりとともに恵巳の記憶に強く残った。