夕闇が迫っていた。夏祭り会場まではすぐだった。
今野さんがいる予感がした。景子は少しでも、早く急がねば、と思った。
風が震えるようにして、微かに吹いている。夏の風だった。夏の風は、静かに景子の前髪を揺らす。それも、夜の風だった。
景子は、深呼吸をした。期待で、胸が詰まった。不思議と、涙が溢れるような感覚があった。その甘い感情を、胸に抑えながら、歩を強めた。静かに明かりも揺れ、夏祭り会場は、もう目の前だった。

貴洋が、陽炎の中を、ゆらゆらと歩いている。
りんご飴の看板が色濃かった。海の予兆が、また、した。

「貴洋!」と、景子が、はやる気持ちを押さえて言った。
「三国?」と言い、貴洋が、振り向いた。
貴洋は、高校の制服だった。紺の詰め襟の横に、薄っすらと透明な汗をかいている。
夕闇が辺りを、もう、包んでいた。緑色の光が、背後に見えた。景子は、思わず振り返った。
それは、この街の巡査が運転する、パトカーの、フロントライトだった。
景子は、通り過ぎるのを待つと、貴洋の手を、引いた。
景子は、思わず、はっとした。貴洋の手は、とても冷たかった。
貴洋が、はにかんだ。景子が合わせて笑い、そのまま手を引き続け、走り出した。

今野さんが、百五十円で売る、大盛の焼きそばを通り過ぎると、海だった。
また、海が見えた。
それは、貴洋と見る、この夏で初めての海だった。
黒く光る、鈍色の夜の夏の海は、貴洋が混ぜていた、美術部のパレットの、ホルベインの発色とそっくりだった。
ああ、と景子が歎息した。思わず、大きな涙が、頬を流れた。
貴洋が好きだった。愛しい、と思った。
「三国海だぜ」と貴洋が、耳元で、囁く。
小さな、明かりが、明滅する海は、真珠を散りばめたようだった。
「まだいる」と、涙で濡れた、髪を人差し指で弾きながら言った。
「ああ、ずっとその埠頭のそばに居る」と貴洋が、言う。
夕闇が去るのも、間際だった。

景子は貴洋を引き寄せると、長い口付けをし、笑い、髪を掻揚げ、また、祭りの後片付けの、小さな灯の方へ向かった。