海辺の縁に一隻の船が停泊し、夜明けの未だ、青さを残した海の青さの中で点滅している。三国景子は寝呆け交じりの様子、父の広志と母の満子を起こさぬ様、今日家を出て来た。景子の耳元に、海の割れる音と、微かに震える様にして、嘶く海鳥の声が聴こえて来た。景子は十七、十七の夏に、この様にして、朝焼けを迎える時間帯の前に、広志と満子の住む小さな海辺の住居から抜け出して来たのだった。景子の視界の階下には、海が見える。昨夜の家を静かに打っていた雨はとうに止み、静かな青々とした、朝はきんと空気が澄みわたり、景子は、夏休みの予兆に胸をおどらせるのだった。
「景子ちゃん!」と、今野さんが言った。
自転車で振り返ると、釣り竿を手に持った、今野さんが、にこにことしている。
「今野さん、おはよう御座います」と景子は言った。
「ああ、この歳になるとね、腰も朝は大変だし、景子ちゃんは、朝から自転車で達者な様子だ。」
今野さんがそう言い、釣り竿を軽く振って見せる。夏休みは、二日目だった。今野さんが笑い、「三国さんは、いつからお休み?」と景子に訊いた。「つい先日、夏休みは始まったばかり。」と景子は言った。「始まったばかりです。」と息を弾ませ、整えながら言うと、「達者で。夏休みには、今野おじさんが焼きそばを焼くから、三国さん是非いらっしゃい。」そう言い、その場を去って行った。

また、海鳥が嘶く声が聴こえた。今日は、二回目だった。先程より、海鳥は低く飛び、海の匂いが濃くなった。景子は、一歩歩みを強めた。海はもう目の前だった。景子は、防波堤のたもとの駐輪場に自転車を停め、鍵を付けた。海の匂いが濃い。波の音が、渦を巻くようにして、頭上に上がり、寝起き後に、軽い目眩を感じた。ざくざくと砂を割って、防波堤の周りを歩いて行く。

海はまだ鳴っていた。静かに波は立ち、白い渦を幾つも作っていた。
「焼きそばを焼くから、三国さん是非いらっしゃい。」
あれは、夏祭りのことだと分かった。今野さんが、焼きそばを焼いたら、夏と夏祭りは、とても賑やかになるだろう、と、景子は思った。
勿論、という言葉を、景子は喉に飲み干した。
「貴洋も夏には、一緒にいるから。」
そう、景子は、思い、笑みを作ると、海に向かい、「おーい」と声をあげた。
声は返って来なかった。静かに、白い波間に、吸い込まれて行った。