………
……

 ジェイ様の説得が終わり、私たちは領主の館へ移った。
 幸いなことに館には余っている部屋がいくつもある。
 そのうちの一室を彼が過ごす部屋に当てたのだ。
 
「では、おやすみなさい!」

「おやすみなさい」

 パタンという小さな音を立ててドアがしまると同時に、つま先から頭のてっぺんまでぞわっと何かが走った。
 そして全身から力が抜けて、その場でへたり込んでしまった。
 ここにきてようやく自分が行ったことの重大さに気付かされたからだ。
 心臓の音が大きくなり、呼吸が荒くなっていく。
 すると背後にいたマインラートさんが私の肩にポンと手を乗せた。

「よく頑張りましたな」

 その一言で体温が一気に上昇していく。
 今度は居ても立っても居られなくなった私はぴょんと飛び跳ねた。
 
(やったぁぁぁ!!)

 歓喜のあまり大声が出かかる。でもすぐ目の前の部屋にはジェイ様がいるのだ。
 はしゃいだ声を聞かれたら恥ずかしい。
 叫び声は胸の中だけにとどめておいて、廊下を駆け始めた。
 喜びと興奮がエネルギーとなって、私の足を動かす。
 深夜で真っ暗なはずの廊下がピカピカに輝いて見えた。
 
(この興奮を誰かと共有したい!)

 その一心で私はヘンリーの部屋へ向かった。
 
――バンッ!

 断りもなくドアを開ける。
 
「のわっ!!? ね、姉さん!?」

 飛び起きたヘンリーを強引にベッドから引きずり出した。
 
「ヘンリー!! 私、やったわ!!」

 冬が近いにもかかわらず薄着のヘンリーはぶるっと身震いしている。
 そんな彼の手を取ったまま私は小躍りを始めた。

「ちょ、ちょっと待ってくれよ。何をやったんだよ?」

「あのジェイ・ターナー様を味方にしたのよ!!」

「はあ!? なにを寝ぼけたこと言ってるんだ!? それにその髪……。いったいどうしちゃったんだよ」

「寝ぼけてなんかないわよ! 本当よ!!」

 彼はいまだに「信じられない」とつぶやいている。
 しかし姿を現したマインラートさんの穏やかな表情で、ようやく真実だと理解したようだ。
 
「まじか……。奇跡って起こるんだな……」

 ヘンリーはようやく状況が飲み込めたようだ。
 そこで私は彼の両肩をつかんで、一つお願いをしたのだった。
 
「ヘンリー! 私の髪を切って!! うーんと可愛くね!」

………
……

 翌朝――。
 ちゅんちゅんとスズメの声が聞こえ始めた頃。
 私は鏡の前でひらりと一回転した。
 
「うん、まあ、これでいいわ!」

 ようやく私の髪型が決まった。
 肩から少し上のところで綺麗に切り揃えて、ふんわりとボリュームを持たせたの。
 ちょっとだけ活発なイメージなのは否めないけど、少なくともボーイッシュまではいかない。
 
「やっとかよ……」

 背後のヘンリーはぐったりとした表情だ。
 それもそのはずよね。今の今まで私に付き合わされていたんだから。
 
「だってしょうがないでしょ! ジェイ様にカッコ悪いところ見せられないもの」

 ヘンリーがむっとした表情で鏡ごしに私を睨みつける。
 
「へんっ! なんだよ! ジェイ様、ジェイ様って! 町が大ピンチって時に、変な気を起こすなよな!」

「ば、ば、バカ言わないの! へ、変な気なんて起こすはずないでしょ!!」

「ほんとかぁ? 怪しいなぁ。顔赤いし。……まあ、とりあえず満足したならもうどっか行ってくれよ。俺はちょっと寝るからさ」

 ヘンリーのジト目から逃げるように、鏡の前からドアの方へ移る。

「うん、そうするわ! 付き合ってくれてありがとね」

 そう言い残して、私は廊下へ出た。
 その直後に食堂の方から焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。
 朝食の準備が整った合図だ。
 私は軽い足取りでジェイ様の部屋へ向かった。
 そしてドアの前に立ったところで呼吸を整えたのだった。
 
(このドアの向こう側にジェイ様がいる……)

 そう思うだけで緊張で体がこわばっていく。

(弱気はダメよ! リアーヌ・ブルジェ!)

 パンを自分の頬を両手で張ってから、「よしっ!」と気合いを入れた。
 そして緊張を吹き飛ばそうと大声を上げた。

「おはようございます! ジェイ様!」

 ジェイ様はすぐには返事をしてこなかった。
 しばらく無言のままドアの前で待っていると、不安の雲が心の中を覆ってくる。

(もしかして……。私は変な夢を見ていたんじゃないかしら……)

 そんなネガティブな考えが浮かんできたところで、静かにドアが開いた。

「おはよう。リアーヌ様」
 
 鼓膜を震わせる爽やかな声に、心を覆っていた黒い雲がさっと消え去っていく。
 廊下の窓から差し込む眩しい朝日が照らすジェイ様の姿は神々しい。

(ああ……。夢じゃなかったのね)

 顔がにやけそうになるのをごまかすために、私は大きな笑みを作った。

「朝食の用意ができております! ジェイ様」

 ジェイ様は小さな笑みを作り、目を細めた。

「わざわざ領主様がお出迎えにこなくてもよかろうに……。それに『様』というのはやめてくれ、リアーヌ様」
 
 なんだかひどく他人行儀な物言い。
 思わず眉間にしわが寄り、頬がぷくりと膨れた。

「だったら、私に対しても『様』というのもやめてください! 耳にするだけでムズムズしちゃうわ!」

 ジェイ様は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに元の微笑に戻した。

「ああ、それがお望みならそういたしましょう。リアーヌ卿」

 まるで姪か妹をからかっているかのようだ。
 私は彼に背を向けた。

「もうっ! いじわるなんですね!」

 強い口調と裏腹に顔がにやけてしまう。
 だってそうでしょう。
 ジェイ様が私をからかってくれたんだもの。
 まるで夢のようだわ。
 そして私は一つの決意をした。
 ジェイ様のことを『ジェイ』と呼ぼう、と。

――町が大ピンチって時に、変な気を起こすなよな!

 ヘンリーの怒声が脳裏をよぎる。
 ちくりと胸が痛んだけど、ジェイ様が望むなら仕方ないわよね。

「ぼさっとしてないで、早くついてきてください! ジェイ!」

 初めての呼び捨てに、ちょっぴり語尾が震えてしまった。
 でも彼は気づいていなかったみたい。いや、きっと気づいていたけど、受け流してくれたのかもしれない。

「ああ、今行くよ。リアーヌ」

 さらりとそう答えてくれた。

(ジェイ様に呼び捨てにされた!)

 リンゴのように顔が真っ赤になっているのは間違いない。

――親しくなるには『呼び捨て』から始めなきゃだめよ!

 ミリアが人差し指を立てながら説教してくれたのが思い出される。
 
(ジェイ様……。じゃなくて、ジェイ。ジェイ……)

 心の中で彼の名前を繰り返す。
 寝不足でフラフラなはずなのに、とても幸せな一日のはじまりだ。