引っ張られるようにしてその場を離れ、しばらく歩いて角を曲がったところでピタッと足が止まった。
「え、あの、木崎先生?」
突然立ち止まるため、驚いて見上げるとなんとも冷たい目が私を見下ろしていた。
「ん? あれ?」
さっきの表情は見間違い? 愛おし気に見つめてきて……っていうのは幻覚?
木崎弁護士からはあっという間にさっきの爽やかさは消え、いつもの雰囲気に戻っている。
「お前、馬鹿か。恋人を先生呼びするやつがいるか」
怒られるかなー、思っていたが案の定叱られてしまった。
まぁ、これに関して反論は出来ない。
「すみません。つい」
「名前、憶えているよな。忘れたとは言わせないぞ」
「はい。貴也、ですよね」
名前は憶えているがつい木崎先生といつものように呼んでしまったのだ。
「名前で呼べ」
「木崎さん?」
「この場で冗談か」
空気がさらに一度下がったように感じて慌てて首を横に振る。
「嘘です。貴也、さん?」
「呼び捨てでいい」
「呼び捨てですか!?」
年上で、ましてや本当の恋人でもないのに呼び捨てはできないし呼びにくい。
なので、貴也さんで譲歩してもらった。
「それでですね、貴也さん」
「なんだ」
「いつまで手を繋いでいるのでしょうか」
再び歩き出した後も、貴也さんは手を離そうとしない。
もういいのでは、と伝えるがさらにギュッと握られた。
「いいだろう。別に。少しはときめくんじゃないか」
ニヤッと口角を上げて言われ、なるほどこれも練習なのかと納得した。
確かに、手を繋いでいると胸がそわそわする。
繋がれた手を意識してしまう。
さっきの優しい顔の貴也さんを思い出してしまう。
それはマズイ。
そんな私の様子に気が付いたのか、貴也さんはフッと笑った。
「リハビリの先生ってこういう気持ちなんだろうな」
「なんですか、急に」
「いや、この練習って要は恋するためのリハビリのようなものだろ? リハビリって患者の様子を見ながら、どうしたら無理なく回復できるか計画を立てる。頑張れって患者の背中を押すんだろ?」
貴也さんのセリフに思わず足が止まる。
「背中を……押してくれているんですか?」
「一応な」
頑張れって、背中を押してくれている? 貴也さんが?
思わずじっと見つめると「なんだよ」と繋いだままの手で額をコツンと押された。
だって、まさか応援してくれているなんて思わなかったから。
自分の利益の対価として、こうしてときめく練習をしていてくれているのだから、そこに貴也さんの優しさが混じっているなんて思いもしなかった。
でも……。リハビリか。
確かにこれはリハビリなのだ。私がこれからときめきを取り戻して恋をするための。
しかし、なぜか胸がチクンとした。
「でも、明日から気を付けろよ」
「え?」
「同僚に紹介したんだから、明日には噂は広まる。自分で言うのもなんだが、俺はそこそこ人気があるぞ。まぁ、だからって何されるわけでもないだろうがな」
その意見にコクンと頷く。
貴也さんの人気は私も理解している。でも実際、私は厨房の中だし、直接何かされるということはないだろう。
「心配ないですよ」
そう思っていた。
しかし、まぁ世の中そう簡単ではないようだ。



