ふと女御の心に、和歌が浮かぶ。

『世の中にたえてさくらのなかりせば 春の心はのどけからまし』
在原業平の歌である。

咲いては胸が踊り、散っては寂しさがつのる。

いっそ知らなければ、こんな辛い想いをすることはなかっただろうに。
――ねぇ? 碧月。

「しょうがないわね、いつまで落ち込んでいるの? しっかりしなさい」

ハッとしたように碧月が女御を振り返った。
「はぁ? 別に落ち込んでなんか」

「人妻を奪うくらいの情熱がないなら、さっさとあきらめなさい!」

ギョッとしたように目を剥く弟を、女御はキリキリと睨んだ。
「冗談よ。おかしなまねをして花菜を困らせないでね。あの子は李悠さまの配慮で時々ここに来てくれることになっているんだから」

「そうなのか?」
「え? なによ。ちょっと、変な気を起こさないで」

ブツブツと何事か文句を言いながら、碧月は憮然として立ち上がった。

「あら、帰るの?」

「しばらく荘園に行ってくる」

「そう、ゆっくりしていらっしゃい」

弟の背中に向かって「いい出会いがあるといいわね」と声をかけながら女御はクスッと笑った。

――弟よ、それでもいいではないか。恋を知ることができたのだから。