「……果穂。あのさ、大事な話があるんだけど」
「え?なんですか?」
大事な話?
いきなりなんの話を、と不思議に思いたずねるけれど、彼は少し考え、言いづらそうに言葉を飲み込む。
「いや、やっぱりいいや。ちょっと心の準備がしたいから……また明日の夜、時間作ってもらってもいいか?」
「はい、大丈夫ですけど……」
「ありがと。じゃあ、俺これから部長の飲みに付き合わなきゃいけないから行くな」
上原さんはそう苦笑いをすると、先に部屋を出る。
心の準備が必要な話って、なんだろ。
付き合ってそれなりに時間が経つ、30代の恋人同士の間で、簡単にはできない話。
そう考えると、ひとつの可能性がふと頭に浮かぶ。
もしかして……プロポーズ?
あの上原さんが、あんなに言いづらそうにしていたということは、それくらいしか思いつかない。
さすがの彼も、緊張してくれているのかな。
結婚という未来を考えていたのは私だけじゃなかったんだ。そう思うと嬉しくなって、ついにやけてしまいそうになる。
好きな仕事をして、そこそこ安定して暮らせて、恋人からもプロポーズされそうだなんて順調すぎる。
幸せすぎて怖いくらいだ。
だけど、私にだってそのくらい幸せな時期があってもいいよね。
なにげなくポケットから取り出したスマートフォンの画面には、5月の日付が光る。
5月が過ぎて、梅雨が明けて……そしてまた、夏が来る。
その度また思い出すのは、12年前のあの夏の日の恋のこと。
……不安に逃げ出し向き合えなかった、あの頃とは違う。
過去の思い出は、胸の片隅に置いて。



