22.
窓の外が明るくなり始めてしばらくしてから大沢は湖山のマンションを出た。湖山と顔を合わせるのが嫌だった。人通りのない早朝の道を駅の方へ歩いた。時間を稼ぐようにゆっくり。そして、もしかすれば、大沢がベッドの隣にいないことに気づいた湖山が、自分を追いかけてきてくれるかもしれないという希望もないわけではなかった。ほとんどありえないことでも、期待する。それを人は希望と呼ぶだろうか。馬鹿みたいだけれど。
改札を通る。階段を一段一段踏みしめて上り、降りる。電車が入線するとアナウンスが告げる。顔を上げれば、線路の向こうに大きな看板広告が並んでいる。『ザ・セブン・シーズ VIII』の広告は、8の字を横に倒し
「There's No Infinity(無限などない)」と煽り文句が書かれている。
大沢は思う。
「And no eternity──そして永遠もない。」
この世に、無限とか永遠とかいうものがあるとすれば、それを愛だと人は言いたがるけれど、無限も、永遠もこの世にはない、それも真実のような気がする。どちらにしろ、自分という人間の存在やその愛については、何ひとつ考えたくない。と大沢は思った。
朝早いフロアはまだ廊下も電気がついていなかった。リノリウムを鳴らす大沢の靴音が薄暗い廊下に響いた。廊下の電気を点けるスイッチを押すとそれは静か過ぎる廊下にカチリと鳴る。明るくなったからなのか、大沢の思考にもほんの少し明かりが差したように、今日一日をなんとかやり過ごそう、という気力が少しは沸いたように思う。
事務所に一歩入ればカーペットが大沢の足音を吸い込む。つい今しがたまで何とかやり過ごそうと思っていた気力が急にしぼんだように感じるのは、足音が消えたと同時にまるで自分の存在そのものがこの空気の中に泡のように吸い込まれてしまったような錯覚を起こしたからだ。
事務所の片隅にあるコーヒーサーバーでコーヒーをセットする。家のものよりもずっと大きい珈琲フィルターをドリッパーに広げる。本当なら湖山の部屋のキッチンで、手のひらサイズのフィルターに、山盛りのスプーンで二つ入れている時間だ。大沢は濃い目のコーヒーが好きだけれど、湖山はいつも苦いというから、湖山の珈琲カップには温めたミルクを半分入れる。
『苦いんだよな・・・』
『朝だから濃いのがいいんじゃない?』
『苦い・・・』
『コドモみてー・・・』
『うるさい』
それまでにもう何度だってふたりで朝を迎えたのに、初めて肌を重ねた日のその朝、湖山と交わした会話を反芻する。あの時、もっと早く言ってくれれば良いのに、と言い掛けて止めた。コーヒーの濃さを、好みの違いをそうやって言いあうことの関係性の深さを急にひどく大事なものに思った。あれは、寝なければ交わさなかった会話だった。そんな些細なことさえ、ふたりだけの物だと思えた瞬間があった。
コーヒーが入るのをぼんやりと見つめていた大沢は中年女性の「おはようございます」という声に急に現実に戻った。生真面目な顔をした中年女性は小さな会釈を二度ほどしてから事務所内に踏み込み、その後を少しふてぶてしい感じの中年女性がひとつ会釈をしてしわがれた声で「おはようございます」と言って入ってきた。大沢に朝の挨拶をした以外は、おそらくいつもの朝と変わらぬ手順だろう、一人はデスクの下のゴミ箱を集めて、もう一人は掃除機を掛けていく。
大沢は自分のデスクに腰掛けて、ぐっと背中を伸ばした。図らずも腕がマウスにあたり、ゆっくりと色を変え始めたスクリーンセーバーが急に動きを止めていつものデスクトップを見せる。大沢はのんびりとインターネットを開いた。
そのうち、ぽつぽつと社員も出社し始める。何かを取りに来て急いで外出する者、朝からあちらこちらへ電話をかけて打ち合わせをしている者、プリンターと格闘し始める者。ざわめき始めた社内の中で、大沢はやっと人心地ついた気持ちになって、PCで仕事を始めた。
背中で湖山の声を聞いた。振り向きたいような振り向きたくないような気持ちが、大沢の中でムクリと動いて、それと同時に電話がなり、まるでそれにすがるように受話器を取る。
「昭栄出版の保坂です。お世話になります。湖山さんはおいでですか?」
電話に出たのが大沢だと気づかなかったらしい保坂がいつになく物静かな声で、それでいて堂々と湖山を請う。
「お待ちください。」
大沢は自分だと悟られないように言葉短く言って三桁の内線ボタンを押した。最後の一桁をぎゅうっと押す。白くなる自分の指先を見つめた。
呼び出し音が一つ鳴って湖山が受話器を取った。我慢しきれずに湖山を振り返ると、湖山はまだ立ったまま左手はまだリュックに手をかけたままで、受話器を握っていた。まっすぐに大沢を見ている。
「ユージンさん、お電話ですよ、昭栄出版の、ホサカさんから。」
湖山は何も言わない。
「ユージンさん」
畳み掛けるようにもう一度呼んだ。
湖山は大沢から目をそらし、「はい」と短く言って外線に切り替えた。
ツーという音が受話器から聞こえる。自分がつないだ電話を湖山が取る。そして自分達をつないでいた回線が途切れる。それは日常の、極めて些細な、極めて当たり前の、極めてありふれた場面でしかないのに、大沢はもう絶望したような気持ちになって受話器を置いた。
窓の外が明るくなり始めてしばらくしてから大沢は湖山のマンションを出た。湖山と顔を合わせるのが嫌だった。人通りのない早朝の道を駅の方へ歩いた。時間を稼ぐようにゆっくり。そして、もしかすれば、大沢がベッドの隣にいないことに気づいた湖山が、自分を追いかけてきてくれるかもしれないという希望もないわけではなかった。ほとんどありえないことでも、期待する。それを人は希望と呼ぶだろうか。馬鹿みたいだけれど。
改札を通る。階段を一段一段踏みしめて上り、降りる。電車が入線するとアナウンスが告げる。顔を上げれば、線路の向こうに大きな看板広告が並んでいる。『ザ・セブン・シーズ VIII』の広告は、8の字を横に倒し
「There's No Infinity(無限などない)」と煽り文句が書かれている。
大沢は思う。
「And no eternity──そして永遠もない。」
この世に、無限とか永遠とかいうものがあるとすれば、それを愛だと人は言いたがるけれど、無限も、永遠もこの世にはない、それも真実のような気がする。どちらにしろ、自分という人間の存在やその愛については、何ひとつ考えたくない。と大沢は思った。
朝早いフロアはまだ廊下も電気がついていなかった。リノリウムを鳴らす大沢の靴音が薄暗い廊下に響いた。廊下の電気を点けるスイッチを押すとそれは静か過ぎる廊下にカチリと鳴る。明るくなったからなのか、大沢の思考にもほんの少し明かりが差したように、今日一日をなんとかやり過ごそう、という気力が少しは沸いたように思う。
事務所に一歩入ればカーペットが大沢の足音を吸い込む。つい今しがたまで何とかやり過ごそうと思っていた気力が急にしぼんだように感じるのは、足音が消えたと同時にまるで自分の存在そのものがこの空気の中に泡のように吸い込まれてしまったような錯覚を起こしたからだ。
事務所の片隅にあるコーヒーサーバーでコーヒーをセットする。家のものよりもずっと大きい珈琲フィルターをドリッパーに広げる。本当なら湖山の部屋のキッチンで、手のひらサイズのフィルターに、山盛りのスプーンで二つ入れている時間だ。大沢は濃い目のコーヒーが好きだけれど、湖山はいつも苦いというから、湖山の珈琲カップには温めたミルクを半分入れる。
『苦いんだよな・・・』
『朝だから濃いのがいいんじゃない?』
『苦い・・・』
『コドモみてー・・・』
『うるさい』
それまでにもう何度だってふたりで朝を迎えたのに、初めて肌を重ねた日のその朝、湖山と交わした会話を反芻する。あの時、もっと早く言ってくれれば良いのに、と言い掛けて止めた。コーヒーの濃さを、好みの違いをそうやって言いあうことの関係性の深さを急にひどく大事なものに思った。あれは、寝なければ交わさなかった会話だった。そんな些細なことさえ、ふたりだけの物だと思えた瞬間があった。
コーヒーが入るのをぼんやりと見つめていた大沢は中年女性の「おはようございます」という声に急に現実に戻った。生真面目な顔をした中年女性は小さな会釈を二度ほどしてから事務所内に踏み込み、その後を少しふてぶてしい感じの中年女性がひとつ会釈をしてしわがれた声で「おはようございます」と言って入ってきた。大沢に朝の挨拶をした以外は、おそらくいつもの朝と変わらぬ手順だろう、一人はデスクの下のゴミ箱を集めて、もう一人は掃除機を掛けていく。
大沢は自分のデスクに腰掛けて、ぐっと背中を伸ばした。図らずも腕がマウスにあたり、ゆっくりと色を変え始めたスクリーンセーバーが急に動きを止めていつものデスクトップを見せる。大沢はのんびりとインターネットを開いた。
そのうち、ぽつぽつと社員も出社し始める。何かを取りに来て急いで外出する者、朝からあちらこちらへ電話をかけて打ち合わせをしている者、プリンターと格闘し始める者。ざわめき始めた社内の中で、大沢はやっと人心地ついた気持ちになって、PCで仕事を始めた。
背中で湖山の声を聞いた。振り向きたいような振り向きたくないような気持ちが、大沢の中でムクリと動いて、それと同時に電話がなり、まるでそれにすがるように受話器を取る。
「昭栄出版の保坂です。お世話になります。湖山さんはおいでですか?」
電話に出たのが大沢だと気づかなかったらしい保坂がいつになく物静かな声で、それでいて堂々と湖山を請う。
「お待ちください。」
大沢は自分だと悟られないように言葉短く言って三桁の内線ボタンを押した。最後の一桁をぎゅうっと押す。白くなる自分の指先を見つめた。
呼び出し音が一つ鳴って湖山が受話器を取った。我慢しきれずに湖山を振り返ると、湖山はまだ立ったまま左手はまだリュックに手をかけたままで、受話器を握っていた。まっすぐに大沢を見ている。
「ユージンさん、お電話ですよ、昭栄出版の、ホサカさんから。」
湖山は何も言わない。
「ユージンさん」
畳み掛けるようにもう一度呼んだ。
湖山は大沢から目をそらし、「はい」と短く言って外線に切り替えた。
ツーという音が受話器から聞こえる。自分がつないだ電話を湖山が取る。そして自分達をつないでいた回線が途切れる。それは日常の、極めて些細な、極めて当たり前の、極めてありふれた場面でしかないのに、大沢はもう絶望したような気持ちになって受話器を置いた。


